久々の読書

2004年6月30日 嫁姑
 今日もかなりゴロゴロしてしまったけど、ウトウトしながらも、本が読めた。昨日はかなりの重労働だったから、今日のゴロゴロは仕方がない。

 図書館で借りた本を全然読んでなかったので、危機感を感じて読んだ。「ADHDの明日に向かって」の本だ。この本によると、どうやら私の怒りっぽさやせっかちも、ADHDが原因のようだ。まだ1/4くらいしか読んでないが、全部読んだらレビューしよう!

 
 昔からゴロゴロの私だが、私も結婚当初は家事をそれなりにやっていた時期があった。それがまた段々と出来なくなってきた。
 
 「この間は汚い部屋を見せちゃったから、今日は褒めさせるつもりで頑張ろう!」と、髪の毛一本落ちてない部屋を見せたこともあるが、姑が一言も褒めてくれなかったので、凹んで部屋の掃除のやる気をなくした。

 たとえば、O-157が流行っていた頃、毎日シンクをきれいに掃除してから料理に取り掛かっていたが、そうすると私の場合、時間配分がうまくいかなく、「流しの掃除なんかどうでもいいから、ご飯を作っておいてくれ。」と言われ、それ以来シンクの掃除をたまにしか出来なくなってしまった。
 
 また、ガスレンジの掃除も、「ちゃんとお料理してるの?」と言われるくらいきれいにしていたのに、「毎日料理してるのに、『ちゃんと料理してるの?』って言われちゃいました!」と嬉しそうに姑に言っても、「良かったじゃない!」の一言もないので、ガスレンジの掃除もまたたまにしか出来なくなった。

 
 私みたいに、当たり前のことが当たり前に出来ない人には、褒めてあげれば成長するかもしれないのに、何も褒めないからやる気の芽が摘まれるのだ。

 私はよく主人に、「育て直しをしてほしい」と言っている。

 さて、エペソ人への手紙2章
 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
 行いによりのではありません。だれも誇ることのないためです。8,9節

 これはよく教会学校などで暗唱する聖句だ。

 善く出来たクリスチャンの人を見て、「私はあんな立派にはなれない」と思い、自分はクリスチャンに向いてないと判断している人もいるようだが、クリスチャンと言うのは、決して立派な人がなるのではない。自分の中の罪を認めた人が、イエスを信じますと告白する、それだけのことなのだ。

 私達は神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。10節

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