主人の実家が教会の隣近所のため、毎週実家に寄っては買い物を手伝っているんです。




 ある日は運転手、

 ある日はホームセンターに土を買いに、

 またある日はメモを持って代行…





 でも毎週毎週じゃこちらも大変だから、ダメ元で生協を進めてみたんです。





 





 玉砕(?)しました~(;;)








 生協は全体的に割高だと!






 そりゃそうだけど配達してもらえると思えば安いし、お義母さんは結局「お礼に」とお金をくれたり、弁当おごってくれたり、お米でお返しをする人なので、生協が安くなくてもお礼を買う手間が省ければ、割に合ってると思うんですが、話の通じない人でした。






 で、カチンと来たのは次のセリフです↓




「はちみつさんは、 週3日しか働いてないんだから買い物くらい自分で行けるでしょう?」





 「はぁ??」って思ったけど、言えませんねぇ。




 「もちろん、自分でも買い物行ってるけど、それだけじゃ足りない場合があるので、米とか牛乳を頼んでます。牛乳は一日1本消費するから、7本買い置きするわけにもいかないので。」って答えました。お義母さんは一人暮らしだけど、うちは大人3人で暮らしているから、買い物も3人前しなきゃなんです。








 「週3日しか働いてない」なんて、失礼な!







 それ以外の日は、それなりに家事頑張っているし、嫁さんが週3日しかバイトしてないから買い物代行やタクシー運転手代わりが出来てるのが判らないの??って思いました。





 確かに、週休2日でバイトしてた頃は、買い物には付き合ってませんでした。







 買い物を付き合っていたのは実の子である主人でした。






 買い物に付き合った上で、重たい荷物まで運んでもらってることについての感謝の気持ちが薄いなぁって思いましたね~。





 昨日は5キロの米を買って、栄養ドリンクの箱買いや飲み物も買ってあってそれら重たい物を運んだのも私だったんです。





 教会の駐車場と実家の玄関を2往復する手間を省きたかったから、



 左手に米を持って、右手に4~5キロありそうな飲み物持って、玄関のチャイム押したんです。





 「開いてるよ~。」






 …って、自分でドアを開けたくないからチャイム2回も押したのに、空気読まないなぁって思いました。





 


 お義母さんは、「老後に子どもたちの世話にならない。」




なんて言ってるけど、もう十分世話したと思ってます。







 


 Q10飲んでどうにか頑張ってるはちみつです。


 昨日は主人と材料の買出しに行き、今日は朝からカレー作りました。

 
 じゃが芋の皮むきという作業が嫌いなので、「一人2個ね!」って一家三人で手分けしてやりました。


 玉ねぎは、私が皮を剥く人、主人が切る人をやったけど、大量の玉ねぎで涙が出ちゃいました(;;)


 メガネをかけてる主人は全然OKそうでした(@@)


 

 カレー30人前と言えば、思い出す言葉があります。その昔、姑に言われた言葉です。


 「はちみつさんは教会のカレーも一人で作れないって、みんなが言ってるよ。」


 ↑この言葉で喧嘩しましたね〜、当時は。今、もしも言われたら、「教会と何の付き合いもない人が何か言ってるよ〜。」って思って軽く流せそうですが、当時はバトルしました。


「だって、30人前ですよ!?みんなって、誰のことです??」みたいなこと言って突っかかりましたね。相手にしなければ良かったのに、若かったから仕方ないです。


 多分、今は自分がそんなこと言ったことすら思えてないと思います。


 そういう人だから。



 長かった嫁姑のバトルの中で、少しは学習しましたね!


・この人(姑)が言う「みんなが言っている」は、実は誰も言っていないということ。

・この人が口だけで言いたいことを言うのは、「手紙は証拠に残るから」・・・つまり、「この人もウソが嫌いだと言いながらウソをつく」ということ。



 これから先も、教会用にカレー作る度にこのバトルは思い出すんだと思う。



 でも教会は助け合う場だから、「お疲れ様です。何か手伝うことはありますか?」と言われることはあっても決して「カレーも一人で作れないの?」と(影で)言う人は一人もいないことを自分たちで分かっていればそれで良いかな、と思った。



 誰でも自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。(新約聖書)



 そうそう、カレーは好評でした^^



 だからバトルの苦い思い出があっても何度でも作れるんだと思う。
 人の悪口をネタにして芸をやっているけど、「好きな人しか斬らない」って言っているし、斬られるのは知名度がある証拠だし、たとえ悪口でも言われるうちが花。何にも言われなくなったらおしまいです。

 私と姑も普段は喧嘩を避けたいから、毎週日曜日会っても、何も言わずに過ごすけど、本当は言ってやりたいことだらけ!

 そうね〜、例えば「普段の掃除がどんなに行き届いていても、スイッチに手垢があるんじゃあ・・・」とか、「物はいっぱいあればいいってもんじゃないですよ。」とか言ってやりたい。でも私と姑は所詮、目くそ・鼻くそだと今は思っている。


 ところで、「短く深く眠る法」の本を、半分くらい読んだけど、お布団の中で本を読もうと思っても、気が付いたら惰眠を貪っている・・・。

 睡眠時間が短くても、健康でいられるのは解ったけど、じゃあ美容にはどうなんだろう?と思っている。

 美容には良くなくても、その分ちゃんと稼いでエステにでも行けばいいのかな?

 睡眠時間が短くても(3〜5時間)若見えの人、いたら見てみたい。
 主人が、自分の母親から聞いたことを全部私に話した。

 
 私には確かに直すべき点はいっぱいある。でも姑の言った言葉で、鵜呑みに出来ないのが一つあった。

 「T君がママのこと恨んでるって。」

 主人がこの言葉を私に伝えた時、普通の表情だった私を見て言った。

「お前、これ聞いてほろりともしないんだな。」

「だってぇ、Tがあなたに直接言ってたんじゃなくて、お母さんが

『Tが言ってたよ。』って言ってるんでしょう?それじゃぁ信じられないわよ!」


 ってことで昨日、本人に直接聞いてみた。

 「Tは、このことでママのこと恨んでるの?」

 「殆ど恨んでないよ。もしそうだとしたら、もっと嫌なことしてる。」

 寝る前にもう一度確認した。

「Tの殆ど恨んでないって言うのは、覚えてるけど、恨んでないって言うことだよね?」

「うん。」

「良かった。おやすみ。」

 

 私は確かに過去にひどいことしたけど、恨まれてるだなんて一度も感じたことはない。

 恨んでいるのは姑のほうだ。だからそんな嘘が出て来るんだ。

かわいい孫が母親を恨んでいるなんて、よくも言えたもんだ。

 
 私もいろんな人からひどいことされたけど、覚えているけど恨んではいない。

 覚えている=恨んでいる   ではないのだ!

 最近、家で聖書を読んでないけど、「互いに赦しあいなさい。」と書いてあるのに、赦す努力もせずに恨んだりはしない。

 主人の母にも聖書を読んでほしいものだ。  
 家に帰ってきたら、子どもが主人の実家に泊まりに行きたがるから、文句タラタラ言いながらも、連れて行くことにした。もの凄いストレスだったので、出かける準備をするうちに奇声を上げてしまった。

 私の今一番嫌いな人間。

 私をまた緘黙症にし、鬱病にした人間。

「はちみつさんは、何もしなくていいから〜!」と言って、私を試したらしい。

 何も知らない、言葉をそのまま受け取りがちな私は、文字通り何もしないでいたら、余計に嫌われた。

 文字通り受け取る私も私だが、仲良くしようと思ったら、
「じゃあ、これやってくれる?」「あれやってくれる?」と素直に指示するのが普通だと思うが・・・。

 今日はストレスと淋しさで泣いた。

 聖書はまた後で。

きらりんさん、
HP少し見ました。大きな大きなオオイヌフグリ!蟻になった気分です。

久々の読書

2004年6月30日 嫁姑
 今日もかなりゴロゴロしてしまったけど、ウトウトしながらも、本が読めた。昨日はかなりの重労働だったから、今日のゴロゴロは仕方がない。

 図書館で借りた本を全然読んでなかったので、危機感を感じて読んだ。「ADHDの明日に向かって」の本だ。この本によると、どうやら私の怒りっぽさやせっかちも、ADHDが原因のようだ。まだ1/4くらいしか読んでないが、全部読んだらレビューしよう!

 
 昔からゴロゴロの私だが、私も結婚当初は家事をそれなりにやっていた時期があった。それがまた段々と出来なくなってきた。
 
 「この間は汚い部屋を見せちゃったから、今日は褒めさせるつもりで頑張ろう!」と、髪の毛一本落ちてない部屋を見せたこともあるが、姑が一言も褒めてくれなかったので、凹んで部屋の掃除のやる気をなくした。

 たとえば、O-157が流行っていた頃、毎日シンクをきれいに掃除してから料理に取り掛かっていたが、そうすると私の場合、時間配分がうまくいかなく、「流しの掃除なんかどうでもいいから、ご飯を作っておいてくれ。」と言われ、それ以来シンクの掃除をたまにしか出来なくなってしまった。
 
 また、ガスレンジの掃除も、「ちゃんとお料理してるの?」と言われるくらいきれいにしていたのに、「毎日料理してるのに、『ちゃんと料理してるの?』って言われちゃいました!」と嬉しそうに姑に言っても、「良かったじゃない!」の一言もないので、ガスレンジの掃除もまたたまにしか出来なくなった。

 
 私みたいに、当たり前のことが当たり前に出来ない人には、褒めてあげれば成長するかもしれないのに、何も褒めないからやる気の芽が摘まれるのだ。

 私はよく主人に、「育て直しをしてほしい」と言っている。

 さて、エペソ人への手紙2章
 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
 行いによりのではありません。だれも誇ることのないためです。8,9節

 これはよく教会学校などで暗唱する聖句だ。

 善く出来たクリスチャンの人を見て、「私はあんな立派にはなれない」と思い、自分はクリスチャンに向いてないと判断している人もいるようだが、クリスチャンと言うのは、決して立派な人がなるのではない。自分の中の罪を認めた人が、イエスを信じますと告白する、それだけのことなのだ。

 私達は神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。10節

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