「キリスト教放送局 FEBC」の代表、吉崎恵子先生のお話を聞いてきました。どんなお話を聞いて来たのかを書いてみたいと思います。


 その前に、この日記を読む気力もない方は、
ここへどうぞ↓



 http://www.febcjp.com/





 

 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。



 今日は、皆様のリクエストでこの題となりました。私はFEBCで40年勤めているので、FEBCのことばかり語るかもしれません。毎日、ラジオで放送しています。夜9時半から放送しています。インターネットでも24時間聞くことが出来ます。世界中から、毎日500通くらいのお手紙をいただいて、手書きで返事をしています。そのうち200通ぐらいが深刻なものです。「(ラジオで)読まないでください。」と言うメールもありました。

 
 自殺を考えている既婚男性からの手紙がありました。

「長いことうつ病でしたが、神様を信じてみよう。と「主の祈り」を日記に書いていたら、後ろ向きだったのが前向きになり、教会にも行ってみるようになりました。」※1


 こういうパーソナルな働きをしています。


 今日は「希望が持てないときにも・・・」と言う題ですが、私たちは本当に神様を見失う時があります。詩篇にも沢山ありますよね?22篇や70篇。最も悲しい詩篇が88篇です。

 神様を見失った時にこそ、私たちは神様を呼び求めるべきなんです。


 神様は、私たちから目を離さない、愛することしか知らない方なのです。


 主イエス・キリストを通して愛してくださる。主イエス・キリストの死をもってご自分を全く与えてくださった。


 
 (ここでマタイの福音書11章28~30節をもう一度読まれました。)


 
 今、ここにいる私たちは疲れていないでしょうか?希望を失わない人生はありません。主がわたしたちをそのように、苦労して、疲れて、「わたしの元に来なさい。」と言っています。


 私たちは挫折し、希望を失います。どんな人も、善人も悪人も、お金持ちを貧しい人も、 「すべて わたしのところへ来なさい。」と言っています。


 幼子のような者、無力で単純な者でないとイエス様を知ることができないんです。


 皆様は「くびき」(※2)をご存知ですか。主とくびきを負うとはどういうことか。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」というのは、そういう風にしてです。


 イエス様と共に担う、本当の重荷とは何でしょうか。十字架です。


 牧師であったわたしの父は、末期ガンで天に召されました。何とも言えない表情をするようになりました。悔い改めの詩篇、130篇を大きな声で耳元で読みました。

 「深い淵の底。そこから神を呼ぶと良い。」


 神が見えないところから神を呼ぶ、「それが恵みの奇跡を呼ぶのだ」と。



 具体的に罪を告白するときに、神様は具体的に応えてくださる。


 神様は、どんなに貧しい祈りも聞いていてくださる!


 いつでも単純に神様を求めるのです!







 



 以上がメッセージの内容を私が書きとめたものです。



 ※1は、ラジオで読まないでほしい内容を私が勝手にブログに書いているので、かなり省略しました。


 ※2 くびきとは、牛が荷物を引くためにつける木製の器具です。ユダヤ地方の当時のものは大抵二頭の牛が並んで引いてゆくための二頭立てのくびきでした。





 私、はちみつも詩篇の暗唱は真似してみようと思いました。


 それと『神が見えないところから神を呼ぶ、「それが恵みの奇跡を呼ぶのだ」と。』を聞いたときに、自分が海で溺れていて必死に助けを求めているのをイメージしました。



 「そういうことか!」と。



 


 前編のつづき。

 3つのことをお話していきたいと思います。私たちクリスチャンの生活にどう密接しているか。

 
 エジプトの奴隷・・・それは途端の苦しみでした。(中略)

 
 紅海が分かれて海が開かれたことは、私たちのバプテスマ(洗礼)を表しています。

 
新約聖書10章1〜4節 そこで兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
 そしてみな、雲と海とでモーセにつくバプテスマを受け、
 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。 


 私たちの救いは洗礼を受けて終わりではない!民も紅海で逃れて終わりではない!

 
 どうでしょうか?この旧約の出来事は、他人事ではないんです。

 信じて踏み込むのか、それともとどまるか。

 モーセ、アロン、ヨシュアはみんなイエス・キリストのひな型ですね。一点の罪もないイエス・キリストを表す方は違いも歴然。

 ヨシュアとイエスは名前も一緒なんです。(中略)

 
 旧約聖書を読みながら、彼らよりも遥かに勝るイエス・キリストの信仰を見たいと思います。

 必ず「それ」を得ることができる!

 「約束の地」は私たちにとって何なのか?聖書全体を通して、御心が天でも地でもなされますように。神との交わりの復元。

 ヘブル9章を読むと聖書は繋がっていますね。

 

 その先にある安息・・・罪を赦され、罰を免れ、神の子とされる安息・・・。イエスによって本当の安息に入れられる。

 本当の救いを得ること、これが「それ」であり、必ずできる!!

 イエス・キリストによって必ず救われる!!

 そもそも、神の栄光を現すために造られた世界が、汚れている。それも修復されていく。

 私たちが何を考え、何をするのか?霊的な戦い。

 私たちはなかなか修復ができない。自分たちでできないと思ったのは、常識的な判断ですが。

 私たちは、できないと判断した側にいるのだろうか?それともできると判断したヨシュアたちの側にいるのか?

 
 もしかすると、凄〜い人間的な欲望を「必ずそれができる」と判断してしまわないように気をつけたい。

 私たちの神の力、神の約束を信じる。

 常識的にはヨシュアとカレブが間違っているのかなぁ?と思うが、二人が正しいと信じたい。

 私たちにとって、「それ」とは何か?考えていきたい。


 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 1日の夜のメッセージは以上です。ちゃんと書けなかった話は(中略)しちゃいました。全体の85%くらいは書いたと思います。

 いつも思いますが、こんなに長い話の内容、よく手書きするなぁ・・・と思います。自分で手書きしたのをまたPCに打ってます。

 前編と後編、合わせて3時間かけちゃいました(^^;

 走り書きだから自分でも読みにくい箇所があるし、聖書の言葉を書く時は、かなや句読点など一字一句間違えないようにしています!

 旧約ではと太い文字で書かれている場合が多いんですが、大変なのでやめときました^^
そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」旧約聖書 民数記13章30節


 学園(神学校)のためにお祈りいただいている団体のためにメッセージ出来てかんしゃですね。連合の多くの方が携わってくださってます。

 
 私は軽井沢に近しい、山を越えた所が私の生まれたところです。私の曾お祖父さんが礼拝を受けた後、ある宣教師が軽井沢に来て「休むのに良い」と言っていた。

 「ショー記念礼拝堂」というのがあります。創設者のショーは、「聖書を読み、学ぶ人のために拓かれている、軽井沢はそういう所だ。」といってる。

 今晩は静かにみことばに聞く時を持ちたいと思います。

 皆さんの年間の聖句で説教を用意しました。妻がこのみことばを見た時に、「この題はあなたが考えたんじゃないんでしょう?」と言われた。この聖句の「それ」とは何か?具体的に掴んで帰っていただきたい。

 
 聖書はなかなか難しい書物です。新約・旧約・・・どれほど深い関係で一つのことを語っているか。出エジプトの、約束の地に導かれる話も、旧約と新約でいろんな事が重なります。

 ※イースターは出エジプトに繋がる。※ペンテコステはモーセがシナイ山に登った時、律法が与えられた。

 長い歴史の中で、神様の計画が着々と進められる。

 出エジプトは脱出だけでなく、約束の地に入っていくのが目的なんですね。(中略)

 
 さて、成人男性で600人を超える人々がシナイ山を出発したのが民数記にある。約束の地が目と鼻の先という所で偵察に遣わされます。

民数記13章27〜29節
 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫をみました。
 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。


 ・・・よく調べてきましたねぇ。きちんとした報告をしています。それを聞いた人たちの驚きが想像できます。しかし31節で、全く違うものを見てきた人たちがいます。

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」


 民は一晩中泣き明かし、「諦めましょう」と言った。どうにも出来なかった。

 私はこういう所を読む時、ホッとします。牧師にもどうにもならない時もあります。モーセとアロンはリーダーですが、この二人も嘆く時があります。ヨシュアとカレブは「行こう!」と言った。
 この「行こう!!」と言えるのはスゴイ。15章8,9節
 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、そこを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」


 約束通りに本当に素晴らしい地だった!積極的なヨシュアとカレブと弱気な民は対称的です。勇気と無謀は違います。信仰と神を試みることは違います。

 彼らが決めたんじゃないんです。「ここが良い!今がチャンスだ!」と彼らが決めたんじゃないんです。9節の「ただ、主にそむいてはならない。」は、今、ここで進まないことは主に背くことだと言っている。

 敵がいかに堅固であり力があるかを見て来た。(偵察に行った)12人の判断では「自分たちでは出来ない」と思ったけど、自分たちには出来ないけど、主にはできる!!になった。

 ヨシュアとカレブは、この戦いはそもそも自分たちの力では何とかなると思っていない。信仰、信仰によるところの勇気です!モーセとアロンはひれ伏して祈りました。

14章19,20節 「・・・あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
 主は仰せられた。「私はあなたのことばどおりに赦そう。・・・」

 (エジプト脱出の)この間、民は立派だった、なんてことはないんです。私たちのクリスチャンの生涯も神の哀れみの中に置かれている。義なる神はこの不信仰な民も罰せられました。
14章7節 こうしてその地をひどく言いふらした者たちは主の前に疫病で死んだ。

 主は彼らと共におられず、40年の方々が始まった。

 3つのことをお話していきたいと思います。

 後編へつづく。
 昨日の旅とバイトの疲れがあったけど、熱もないし体調も優れているのでちゃんと教会へ行きました。

 今日の説教はどんなだったかを簡潔に書くと・・・

 ヨハネの福音書21章15〜19節からのお話で、ペテロはイエス様を「知らない」と言って裏切ったことがあるんだけど、そのペテロをイエス様は一度も叱責しなかった。失敗を非難しなかった。

 失敗や挫折をイエス様は悪としない。

 たとえ大きな失敗をしても用いることができるお方。

 キリストの恵みこそがかたくなな私たちの心を溶かすことができる。キリストの真実こそが私たちを真っ直ぐに立たせてくださる。

 ・・・こういうメッセージでした。


 毎週毎週、土曜にバイトがあるから、翌朝大して疲れていなくても「やすみたい」っていう誘惑があるけど、頑張って行く度に「今日もちゃんと礼拝に来て良かった〜!」と思いますね^^

 でも、もしも本当に動けないくらい疲れてしまった時は、休んでます。そこまで疲れることは滅多にないですが。



 午後は、パパが新しい本棚を買ってあったので、組み立ててました。

 私は、疲れがたまっているし夜もバイトがあるので昼寝させてもらいました。

 
 「文字通り日曜大工だねぇ!!」って言って笑っちゃいました(^0^)


 2時間くらいでオシャレな本棚が完成してました。
 毎週欠かさず、礼拝に出席したからにはノートをとっているはちみつです。


 本当は毎週のように「礼拝の説教」を日記に書きとめておければ良いのですが、土・日・月とバイトをしていると大変なので、日記には書かなくなっちゃいました。


 でも、この日の説教は牧師先生が涙ながらに語っていたので、ちょっとでも書いておきたいと思いました。

 何を涙ながらにかたったか。一言で表現してみます。



 

 もしも私たちがアルツハイマーになってイエス様を忘れることがあっても、イエス様は私たちを忘れない。





 牧師先生は、30年以上もの間ずーーーっとイエス・キリストの愛を語って来ました。今も元気で毎週礼拝で説教してくれています。でも、その先生がもしも「イエス様?誰ですか?」なんてことになっても、イエス様は変わらずに私たちを愛して覚えていてくれるんです。



 会衆のみんなの中にも、共感して泣いている人がいました。





 毎週毎週はなかなか書けないけど、またごくたまにでも書けたらいいなぁと思いました。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。誰を探しているのですか。」彼女はそれを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

ヨハネの福音書20章15節


 はじめに。

 いつも私、はちみつの、つまらない日記に目を通して下さり、ありがとうございます。

 私が「礼拝の説教」を書くときは、いつもなら自分の耳で聞き取った内容をそのままノートに取り、それを今度は自分の両手でこの日記に書きこんでいるわけなんですが、今回はとても早口でしたので、コピーを貼らせて頂くことにしました。

 
 これより先、コピーです。

 はじめまして、○×△教会の皆様。本日は、証しの場をお与えくださり、光栄
に思っております。日頃より尊敬申し上げております○×牧師先生の教会で、皆
様とご一緒に主を礼拝できる恵みにあずからせていただけることに、心から感謝
申し上げます。
 以前の私は、猛烈仕事人間でした。寝る間を惜しんで東奔西走するほどに、自
信とエネルギーに満ち溢れていました。これこそが天命とばかりに忙しくするこ
とを一種の誇りのごとく錯覚し、家族に毎日、寂しい思いをさせていたのです。
こんな生活が長く続くはずがありません。1999年8月についに出張先の奈良
の地で倒れてしまったのです。
 私のなかでバブルが崩壊したのです。後天性血友病が発病し、それが大腿部に
大内出血を起こし、さらにそこにサルモレラ菌が感染してしまったのです。非常
に稀有な病気のために治療法がなく、ただ再出血が繰り返される度に気を失うほ
どの激痛のなか、敗血症を起こし何度もDICになりかけました。体内で病魔と
いうテロが多発するという致命的症状のオンパレードとなったのです。
 2000年の1月にかけて3回も大手術を受け、トータル輸血量60リットル、
二度の血漿交換、その代償として右足を根本から失うことになったのです。
 このような壮絶な闘病生活を通じて、私ははじめて主に従うこととはどういう
ことかを、理解することができました(詩篇23:4)。神様が本当に存在する
ということを心の底から知ることが出来たのです。そして、神の愛を知ったので
す。

死線の危機を脱出した私は、車椅子に乗せられ歩くことも出来なくなった片足
の自分に、突然深い絶望を感じたのでした。そんな日が続いたある日、いつもの
ように家内が押してくれる車椅子での散歩中ふと後ろを振り返ったとき、左足1
本でケンケンで私の車椅子のあとをついて来る当時7歳の長男の光景が目にはい
ったのです。
 私は心から悔い改めました。止めどもなく溢れ出る涙を抑えることが出来ませ
んでした。苦しんでいるのは自分一人ではない。家族みんなが闘っているんだ。
身体的に障害を持つ身となりましたが、家族の愛に支えられてハンディを誇って
いこうと勇気が与えられました(?コリント12:10)。
 私に60リットルという莫大な輸血を献血してくれた奈良県と大阪府の多くの
方々のおかげで、私が今あることをおぼえます。彼らの多くはクリスチャンでは
ありません。私はこのことを通じて、99%のノンクリスチャンに支えられてい
る自分に気づいたのです(ルカ10:30〜37)。
 今、私は、生きています。義足という新たな足を得て、北は北海道から南は鹿
児島まで自由に行き来することができるようになりました。さまざまな教会や学
校で証しし、聖書のメッセ−ジをお伝えする機会も与えられております。
 昨年9月には、これまで継続してきた研究に対して博士号が与えられ、今年4
月からは大学の教員として教育・研究活動に従事させていただいております。
 このように私には何一つ誇れるものがないのに、神様は溢れんばかりの祝福を
注ぎかけてくださるのです。

 主は命を与えませり

 主は血潮を流しませり

 その死によりてぞわれは生きぬ 

 われ何をなして主に報いし
(讃美歌332番)
 

 神様は本当におられるんだ。この単純にして最も根源的な真実を、わたしは自
分の生涯かけて証しして行きたいと願っております。そして神様に応えていきた
いと願っております。わたしのような欠点だらけの者をも、もちいてくださる神
様の愛に涙しつつ。
 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


 Then Jesus said to His disciples,
“If anyone desires to come after Me, let him deny himself, and take up his cross, and follow Me.


 
 私が皆さんの前でよく口にする川柳で、
神様は、合格したら 縁切られる。というのがあります。ご利益的な信仰を浮き彫りにしている。私たちはこの川柳で笑いますが、私たちに当てはまることはないでしょうか。

 ペテロの「あなたは生ける神の御子キリストです。」という告白が16章16節にあります。イエス様は神の子なんだ、救い主なんだ、と告白して生きていく。イエスをキリスト(救い主)として信じる信仰告白の上に立っているのが教会なんです。私たちが集まっているのは、信仰を持って生きている。幸いだといっている。イエス様がこのようなことを仰ったのはここが初めて。(17節)

 21節イエス・キリストはご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

 おどろくべきこと。自分達が描いてきたメシヤ像とは全く違う。あの川柳に通じるものがペテロにあったかもしれません。

 私たちも神様とはこういうものだ、教会とはこういうものだ、というイメージを持ってる。ペテロはどういう態度をとったんでしょう。

「そんなはずは、ありません!」と否定した。そしてイエス様をいさめたんです。その時、イエス様は「下がれ。サタン。」と言っている。ついさっきは「あなたは幸いだ。」と言っていたのに。

 なぜ、そのように叱責をされたのか。「誰でもわたしについて来たいと思うなら・・・」ここで縁を切られるんです。なぜなら損をするからです。

 誰も十字架を好んで欲してはいない。十字架は負わなければならないんです。しかし、負うことの出来ないような十字架ではないんです。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)
 十字架は苦しいかもしれない、けれども負える程度のもの。では十字架とはなんでしょうか?

 「自分の十字架を負って・・・」と言っている。ある人は重い病気かもしれない。いずれにしても神様に従って生きていく時に負うもの。

 新しい家庭というのは、大変なことです。私は毎年毎年、離婚を調べているんです。戦後60年、毎年毎年離婚が増えているのです。クリスチャンだから大丈夫、とは言えないのです。同じ人間ですから。皆さんの中には教会で式を挙げた人がいるかもしれません。誓約の「病める時も・・・」というのは、不利な時のことなんです。そういう時も一緒にいる、と誓約したんです。

 イエス・キリストが人を救うために十字架を背負われた。私も健やかな時も、病める時も、体験してきました。私がどれだけ妻に苦労をかけたか、知れません。健やかな時に、共に楽しみ、共に喜ぶのは出来る。しかし病める時も共に歩む・・・十字架を負って歩むって、そういうことではないでしょうか。

 それは、苦しいってものだけではなくて、それはむしろ慕わしいものに変えられていくんです。私たちもまた、十字架を負いたいと思う。

 教会が花嫁であり、キリストが花婿だから、そうしたいと思う。昨日も青年達が子どもたちと一緒にゲームしたり、楽しんだりしてくれた。疲れているかもしれないのに。

 エペソ人への手紙1章23節
 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 教会を愛するっていうのは、イエス様を愛するってことなんです。イエス様は言いました。(冒頭参照ください)

 
 最後に27節。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

 十字架を負って歩むほどに愛するなら、神様はちゃ〜んと見て評価していてくれる。高みから見てるんではありません。私たちと一緒に十字架を負っているのです。ですから十字架の道というのは慕わしいのです。
 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
その町にひとりのやもめがいたが、彼のところにっやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。
彼は、しばらく取り合わないでいたが、後に心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、
どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしう。でないと、ひっきりなしにやってきてうるさくてしかたがない。』と言った。」
主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
まして神は、昼夜神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」


 今日の題は聖書からとりました。辞書で調べてみると、「望みを失う」「当てがはずれてがっかりする」と書いてある。けれどもイエス様は失望してはならない、と言っている。特に祈りにおいて失望してはならない。

 教会においてもしばしばそうではないか。(エホバの証人の研究生の)○原○子さんのことも。みんなで祈りました。私は専門家ではないから、C先生に頼みました。大丈夫かと思いましたが、ダメでした。次にK先生が、専門家が、半年も取り組んでくださった。それでもダメだった。私が出向いて一日取り組んだこともある。麦の会の方が○子さんを説得してくださった。そして今、どうしているか。中澤先生がシンガポールに行っているので、○子さんと○田さんもシンガポールに行っておられる。・・・しかし、なかなか祈っても応えられない時がある。失望しないで祈ることは、神様からの課題ではないだろうか。

 一生懸命、しつこくしつこく求めるもんだから、与えてやろうと思った。神様なら、もっともっと私たちに応えてくださる!

 私たちの教会は、2X年間たちました。××の土地で始めましたが、当時使っていた所の隣が、買えそうだった。けれども私たちが買おうとしていた土地から1分くらいの所が、1坪792万!

 50坪×800万=4億円だった!

 4億円もしそうな土地を3000万円で売る人はいない。そしてまた色々探した。そして連合にお願いしたんです。そしたら淡白な態度だったので「連合としては出来ません。」と言われてしまった。そして5000万円でこの地に、礼拝堂を建てることが出来た。

 私がそのとき思ったのは、熱意がなければならない、ということ。心の中で祈っていますとね、グルグル回ってしまう。どんなに強く願っても言葉に出さなければ通じない。

 この人は(祈っても)ダメだ、あの人は(祈っても)ダメだ、と思っていることはないだろうか。

 先週、キングスガーデンに行って、家内の母を見舞った。

 まぁ、ことごとくキリスト教に対して反対したのは母だった。1998年のイースターに洗礼を受けたんです。30年後に救われたんです。

 7年前の、あの時でなかったら、無理だったでしょう。

 神様で自身の時がある。早い場合もあれば、遅い時もある。いつでも祈るとべきである。

 失望してはならない。
 夕方に書いてたのが全部消えちゃって凹んだけど、再度挑戦!!ってか、3回くらいに分けて書きます。

 聖書を読んでいくときに、納得できない所が色々あります。例えば悪いことをした人が得をするなど。聖書が言ってることが、ちょっとおかしいと思うけど、本当はそこが聖書らしい。

 (このキャンプで)毎回練習している「ああ驚くべきイエスの愛よ」も恵みを歌っている。

 ぶどう園の主人が、朝(6時にしましょうか)から人を雇って働かせるのです。12時と3時にも雇われて、5時になっても雇われる。そして6時になった時に、5時から1時間働いた人が1デナリもらった。並んでたみんなは期待したでしょうね。でも朝から働いた人にも1デナリ。「私はあなたに不当なことはしていない。(中略)あなたはねたましいのか。」

 皆さん、このお話をどう感じましたか?私たちの社会でこういう人がいたら、労働組合で文句を言われる。あるいは皆さんの中に、この主人を素晴らしいと思う人がいるでしょうか。実は、あなたがどの立場に立っているかで、違うんですね。

 私は大学時代にですね、ギターやウクレレを練習しててですね、ドイツ語の単位を取れなかった。私が教授に頼み込んだら単位をくれた。それをほかの人に言ったら、「えーっ!俺もお前も同じか!」といわれた。

 神様の恵みというのは、朝から働いてる人にはわからない。5時から男にわかる。私たちの社会で考えますと、沢山働いた人は沢山もらえる。この聖書を読んだ人が真似をすると、その会社は倒産します。

 宗教では沢山やれば、沢山祝福される。これで繁盛する。エホバの証人は、神様の期待に応えて一生懸命やれば報われる。しかし、聖書の神様は、恵み深いんです。これがテーマなんです。

 恵みというのは、資格がない者に与えられる。

 聖書が何度も何度も私たちに言うのが、私たち罪人(つみびと)だということ。これが嫌だという人もいるけれど、子どもが親を裏切って出て行く、これが罪。

 放蕩息子のお話を思い出してください。本当は、財産というのは、亡くなってからもらうのに、生きてるうちにもらって出ていく。神様と縁がなくなる、これが罪人。

 私たちはもう神様なんて知らないっていう顔して生きているけれども、昨夜も言ったように、神様の恵みによって生きている。

 神様を知らない、離れた生き方は、いつしか破綻が来る。さっきお話しました放蕩息子も、お金がなくなって落ちぶれました。ハッと気が付く。お父さんの所から出てきたのが間違いだった。しかしこの息子は雇い人にしてもらえるかも知れないと帰る。

 そして息子が帰った時に、お父さんの方から駆け寄り、新しい服を着せて、「よく帰って来てくれた!」と言って祝福する。

 
 私たちはもっともっと素晴らしい生き方が出来る者なんです。お父さんの交わりの中に生きるのが、本来の姿なんです。

 イエス様はそのことを知らせるために生まれて来られたんです。イエス様が十字架についていた時、「十字架から下りてみろ!」といわれた。しかし、「父よ、この人をお赦しください。この人は自分で何を言っているのか、わからないのです。」といわれた。

 アメージング・グレイスの作者のジョン・ニュートンを知っているでしょう。奴隷を売って、良心の痛みを感じてなかった。しかし後に、嵐の中で神様を信じて救われて、牧師になった。

 神様助けてくださいって言う人が、神様の恵みがわかります。

 「おどろくばかりの」(アメージング・グレイス)の歌は、クリスチャンじゃない人もたくさん歌ってるんですね。名古屋のライブハウスでアヤドチエさんに歌ってもらった。彼女は1番しか歌わない。2番3番の意味がわからないらしい。

 おどろくばかりの恵みなりき

 この身のけがれを知れる我に


 本当にそうですよ。100%神様の恵み。じゃあ、私たち何もしなくていいのか。私たち一つだけすることがあります。差し上げますといわれたら、手を出して受け取る、手を出すこと。これだけなんです。これが難しいんです。さっきの放蕩息子のお話で、兄息子がそう。私のために牛一頭ほふってもらえないという。私たちみーんなプライドがある。しかしよ〜く考えてみてください。私たち本当は受ける資格がない。

 強盗さんが天国第一号です。私もね、クリスチャンになったのが、22歳の時なんです。数学とか、化け学とかが好きで、エンジニアになろうと思ってた。その頃、ミッションスクール出た人が、キリスト教もあるぞと。

 そして釧路で教会に行こうかなぁと思った。初めて聞いたけど、なんとなく解ってきたんです。私は何か知らないけど、伝道集会で一番最初に前に行って、祈ってもらったんです。

 わずか4ヶ月の間に救われたんです。何も悪いこともしてないし、悩みもなかったんです。そして神様は私を包んで、さらにさらに高くしてくださった。

 一番大事なのは、「はい。」と言って、神様の恵みを手を出して受け取る事なんです。

 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。エペソ人への手紙2章8節
何年か前のことになりますが、サラリーマンやOLに対するアンケートがありました。上位には、お金の悩み、仕事のこと、ダントツ1位は人間関係でした。私たちが生活してる中で一番の悩みは人間関係。傷つけあうのを赦してもらえなかったり、赦せなかったり。

 「死のとげ」という映画を見た。聖書的なタイトルだなぁと思って。主役の旦那さんは、作家志望だけど浮気をしてしまう。毎日毎日の生活の中で、奥さんはとげのようにちくちくちくちく浮気のことを言う。何年も言うので、「うわーーっ!」と叫びだした。奥さんは精神を病んで病院に入る。奥さんが、「私、治るんでしょうか?」と聞いて、旦那さんが「きっと治るよ。」と言っておしまい。重苦しくて、とても考えさせられた。

 奥さんは、浮気を忘れて赦せない。人間は、赦せない、赦されないほど苦しいことはありません。赦し、赦されることが出来れば、私たちは幸せになれる。

 ペテロがイエス様にたずねた。7度まででしょうか、と。
仏の顔も三度まで。それを遥かに超えて7度までといったので、褒められてもいいと思った。7×70=490回。どこまでも赦しなさい。

 そーんな、どこまでも赦せだなんて、出来っこないですよ、と思う。

 ここではイエス様がなぜ、このお話をしたのか。イエス様は、「あなた方は赦すことのできる人間になれます。」と言っている。

 主人がしもべに1万タラント貸している。でも、しもべが返せないので免除してやった。この聖書の箇所を読んで驚いたでしょうか。1万タラントがどれだけか知らないと、判らない。1万タラント=6000デナリ。1デナリは一日分。6000デナリは20年分。1万タラントは、20年分の借金。1デナリ=1万円だとして、6000億円。それを全部免除してやった!

 これはたとえ話ですからね、しもべは私たちなんです。主人は神様。皆さん、神様は空気も水もぜーんぶただで下さった。私たちは神様に恵みに恵みを受けていながら、もっと多く求めている。でも神様は私たちの借金を全部赦してくださった。

 皆さん、私たちがなぜ人を赦すのが難しいか、解りますか?損をするからですよ。ところが私たちは損をしたくない。だから赦せない。「あの人が悪いんだから」という。

 この後続きがある。今ならケータイ電話で奥さんに報告する。「全部、ゆるしてもらちゃったよ〜!」と。その人は途中、友人にあって、「100デナリ返せ!」って胸ぐらつかんだんですよ。自分が6000億円赦されて、「いいよ、僕はも〜っと赦されたんだから^^」とは言わなかった。それで主人に、「おまえが赦さないんなら、私も赦さない。」と牢に入れられる。

 私は昔、内村鑑三のサイン入りの本を持っていた。ゆうちゃんがくれたんです。「えーっ!?これもらっていいんですか〜!!」それを神学生仲間に自慢した。表紙がボロボロだったんで修理に出したら、内村鑑三のサインがなかった!!

 頭にきて、もの凄く怒っていたのでクレームの電話もした!それで家に帰って、この聖書の言葉を思い出した。イエス様は「お前は何を怒っているのか。私はお前のために命を捨てたではないか。

 ・・・聖書に責められたら、何も言えない。だから、「もう、いいです。」という電話をかけた。「神様に赦せといわれて、赦します。これからもお付き合いください」と。その本を今でも持っている。サインはないけれども。本を見ると今でも思い出すんです。コンチキショーじゃなくて、赦したことを。

 神様の恵みというのは、本当に行き届いているんです。クリスチャンになって神様の恵みが終わるんじゃないんです。クリスチャン生活は、努力じゃないんです。ありのままに生きればいい。

 クリスチャンじゃない人は、「それじゃあ、自堕落な生活になるのでは?」とか、あるいは「信じなくてもみ〜んなパッと天国に連れてってくれればいいのに。という。でもそうではない。天国の居心地のいい人がいる。そうなれないまま行ったら、それは悲劇です。

 若い人に、こんな話をしてみる。ジーコ監督から、ワールドカップに入れてやるから・・・と言われても、サッカーがまだ出来ないから、恥をかく。ジーコ監督に選ばれたからって、勉強もせず、サッカーもほどほどに練習するのではない。ジーコに従って訓練される。

 私たちの教会に、80代のご婦人がいる。傷つけられると祈りの部屋に入る。その人は※「主の祈り」を祈ることによって、「 何を怒っていたのか忘れた。」と言って出てくる。

 主の祈りの5番目。イエス様が罪の赦しの祈りを入れられたのは、大きな意味がある。皆さん、毎週教会で借金の祈りをしているんですよ。これも赦しますあれも赦します、と言って生きられれば、幸せになれます。赦せないのが一番不幸なのです。

 赦せないのを全部置いて、軽くなって帰りましょう!軽井沢!

 信仰の出世魚を教えましょう。まずは、「赦せタラいいなぁ。」次に「あの人を赦しタイ。」鱈から鯛に。そしてもう一つ上は鱒。

 「今限り赦しマス。」とお祈りすると、私たちの重荷を取り去ってくださる。もしここで出来なくても、帰ったら出世魚を!

 七かける七十倍まで赦しましょう!


 以上が「礼拝の説教」です。主の祈りって??の人のために、主の祈りも書きます。

 主の祈り

 天にまします我らの父よ。
願わくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ。
国と力と栄とは
限りなくなんじのものなればなり。
       アーメン 

また、長い箇所ですが頑張って書きます!

 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。
王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
しかし、彼は返済することが出来なかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部売って返済するように命じた。
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうか、ご猶予ください。そうすれば、全部お払いいたします。』と言った。
しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
彼の仲間はひれ伏して、もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
彼の仲間たちはことの成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
そこで主人はしもべを呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
こうして、主人は怒って、借金全部を返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなたがたにこのようになさるのです。」

 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものをあげるから。』
彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろ三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
また、五時ごろに出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
彼らは言った。だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。
こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
言った。この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じようにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。
しかし、彼はそのひとりに答えて言った。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人たちにもあなたと同じだけ上げたいのです。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。


 明日は、6日のメッセージを書きたいと思います!
 どんどん進んでいくメッセージを、書ける限り一生懸命書いてますが、聞いた事全部を書ききるのは大変なので、思い出しながらいつも書いてます。以下、メッセージの内容です。


 涼しい軽井沢にお招きいただき、ありがとうございます。愛・地球博に来た方はおられるでしょうか?

 神様の恵みは、いつもいつも新しい。さて、皆さん、「神様の恵み」という時に、どういうことを思い浮ぶでしょうか?

 酸素を作るのに大変な手間が掛かりますが、皆さんは「空気代」神様にを払っているでしょうか?あるいは「水代」を払っているでしょうか?水道代というのは、水道局に対する「手間賃」ですよ。私たちはお米代をスーパーに払います。お米もどこかの農協から送られてきた物です。お米代は人件費なのです。

 着ている物、コットン、ウール、車の鉄やプラスチック・・・100%神様から恵みを受けてきている。

 化け学をやっていると酸素を作るのは大変なのに、タダで受けている。イエス様は、良い人にも悪い人にも雨を降らせると言っています。

 タラントの話を振り返ってみましょう。5タラントの人も、2タラントも人も、全く同じみことばだったでしょう。じゃあ、1タラントの人はどうだったか。「銀行に預けていれば、利子がついたのに・・・」と言った。クリスチャン向けだと思うんですけれども、一人一人に個別の物を預けられている。

 タラントという言葉は、タレント。日本じゃ芸能人になるけど、英語では賜物、「ギフト」

 みんなが眠くならないために、苦労するんですが、自分は5タラントだと思う人、手をあげてください。2タラントだと思う人。・・・多くの人が1タラントで手をあげるんです。あの人には5タラントあるのに自分には1タラントしかない、と考える。私に1タラントしかない、というのを神様は見透かしていたのではないでしょうか。

 タラントが足らん足らん足らん足らん!

 私には、賜物が足らんと!・・・という人のためのお話なのです。神様の栄光のために生きていない。1タラントしかないというのが原因。

 私たち日本人は、「うちの子はあれも出来ない、これも出来ない」と自分の子供を紹介する。あるものを見逃す、あるのに気付かない!

 さて、私たちが神様の賜物(たまもの)を知るために、あなたの賜物の型(SHAPE)を見たいと思います。

Situation(状況)・・・どんな家庭にうまれ、どのような友だちに恵まれてきたか。教会を(の人たち)見てください。全部神様からの恵みなのです。

Heart(心意気)・・・本当に好きなことをやりだすと、報酬がなくてもやるんです!神様は、一人一人にやりたい事、好きな事を与えてくださっている。

Abirity(能力)・・・ピアノも1万時間練習すれば、普通の人もリサイタルが開ける!ピアノに限らないで、碁とか、何でも根気よく続ければ出来る!

Parsonality(性格)・・・自分の性格、また「あの人の性格が悪い」という人もいます。みんなか明るいと、どうですか?怒る人も、忍耐強い人も必要なのです。虹も七色ですけど、どの色もいい!

Experience(経験)今から高齢化社会ですけれども、お年寄りが何もすることがない訳がない!苦しいこと、辛いこともいっぱい経験して、優しくなれます。だから経験を賜物と思いましょう。

あなたも賜物の SHAPE UP しよう!

レーナ・マリアさんも、手や足がないけれども、「神様は私に歌と障害という賜物を与えてくださった」と言っていたのを朝日新聞で読みました。「障害を与えられた。」という人はいるけど、障害を賜物という人は初めて見ました。ハンディ・キャップだと思ったら、隠してしまいますけれども・・・神様から与えられている賜物を、どれだけ賜物と思えるか。

(中略)

ですから、神様からいただいている恵みの賜物は、どれだけあるか。ご主人に対する不平不満ではなく、1タラントでも感謝すればいい。

 1タラント=6千万円。今年の教会標語は、「神の国の忠実な管理者」ですが、具体的に忠実とは・・・?広辞苑の中の忠実でなくてもいい。

 名古屋人にお金を渡すといったら、貯金するという。商売をしない。リスクを知っているから。失わないように、ずっと持っている。英語で、忠実はfaith信仰という意味。忠実というのは、信仰を持って歩むということ。神様がちゃんと儲けが出るようにしてくださる。

 失うことを心配しなくていい。神様はちゃーーんとその人に儲けをくださる。必ずそうなる、という約束なのです。

 私たちがやるべき事、みんな一人一人違うんです。


 以上がメッセージです。私は牧師とかになるつもりはないから、自分じゃメッセージを考えたりしないけど、メッセージを一生懸命ノートに書く賜物があるので、それを用いて行きたいと思います!

 
 何かと忙しくて書けなかったから、やっと書けて嬉しいです!

 
 皆さんはこの「放蕩息子」の物語を、どれくらい聞いて、どれくらい読んで来られたのでしょうか。私は中学生の頃の話ですが、ある牧師婦人が話す放蕩息子の話がとても解り易かったのを覚えています。それから50年の間、何度読んだか、何度聞いたか、何度説教したかわかりません。その度に新しい響きがあります。皆さんも一緒に体験したいと思います。

 
 私もこの放蕩息子と殆ど同じでした。一つだけ違うのは、父親は牧師で財産がない、家出をしたけどたちまち行き詰った。自殺しようとしたけど出来ず、教会に逃げ込んでそして救われた。

 反抗して、家出して、ごめんなさい・・・同じことをした。多分形は違うけど、放蕩息子と姿をダブらせて考えることが出来るんではないでしょうか。そして私は兄とも一緒。

 父は息子が帰って来て大喜びしたんです。けど兄は一緒に喜べなかった。よく、不幸な人にやさしくすることはできる。しかし試験に受かった人に口では「おめでとう」と言っても、心から喜んではいない。あるいは、とても元気で生き生きとして、明るく元気な家庭、仕事や商売もうまくいっている人に、「良かったですね!」と一緒に喜ぶことが出来ない。

 憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。
 しかし、ねたみの前には
 だれが立ちはだかることができよう。
箴言27章4節

 この箴言の言葉は今でも言えること。格言ですから。

 イエス様が殺されたのは、ねたみによった。ねたみによって捕らえられて、そのようにされた。ヨハネもパウロもそうです。ユダヤ人から反対され、迫害されたのはねたみによる。

 この弟息子もねためまれている。父の、このたしなめる言葉が、どれだけ届いたでしょうか。この兄に重ねて語り、この弟に重ねて語ってきました。けれども父親に重ねて語ったことはなかった。

 父とは神様のことです。

 3人の登場人物。弟は悔い改めること、兄はねたみを悔い改めること、父は広い心で哀れみ深く生きるように許すということですね。

 弟は父の心を踏みにじった。そしてノコノコと帰って来た。裏切られた。恥をかいた。どの面下げてきたのか。もう敷居はまたがせないと言うかもしれない。ところが20節で父の方から行った。そしてまたところが22節で息子を赦し、受け止めているんです。

 兄息子はまず、弟を赦せない。父を赦せない。そうして世界を狭めている。そのような心を持っている兄息子が一番不幸。

 父は私と同じようになってほしい。それがどんなに幸せになれるか。この父親の姿。この哀れみ深い心を持って受け入れる者。

 どうすればいいか。一つは弟息子を原点として生きるならば、他の人を赦すことができる。自分が赦されたから、赦すことができる。第二は、父はたしなめてくれている。それに耳を傾ける。自分を軌道修正して、だんだんと神様に似た者になることが出来るんではないでしょうか。

 そうなれたらと思います。
←これ、ゆり??

 さておき、今日は礼拝が始まった時に隣にいるはずの主人がいなかったので、どこにいるのか所在が不明で少々不安だったから、最初からは集中できなかった。

 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』というでしょう。
 あなたがたに言いますが、それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。


         ルカによる福音書 15章8〜10節

 まだ結婚していない方も想像してもらいたいと思うんですが、もし結婚指輪をなくしてしまったら大変。必死になって探すと思うんです。

 あるサザエさんの一コマで、指輪を流しの穴に落してしまって、それをネズミにとってもらって、そのネズミを大事に鳥かごで飼うっていうのがありました。

 銀貨を首につないで持っていく・・・指輪みたいなものなのかもしれません。この二つのたとえは、7節、10節に意味がある。(10節は上を見てください。)

 7節
 あなたがたに言いますが、それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。


 罪人が悔い改めて神様に立ち返る。悔い改めっていうのは方向転換なんですよね。神様は私たちに求めておられる。ただの一人をも神様は無視なさらない。銀貨9枚でいい、(正しい人たちが)99人でいいとは言わない。

 
 悔い改めはたった一度ではない。私たちは罪を繰り返す。その度に悔い改める。自分が正しいと思っている人も、新しい光で自分の姿がしめされた時に、悔い改める。神様に似るように悔い改める。5節〜10節の中に「喜び」が5回出てくる。

 
ペテロの手紙第二 3章9節
 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 ↑これが神様のお心なのです。世の終わりが来ると教えられているのに、延び延びになっている。それは一人でも多くの人が悔い改めるためです。

 
 ローマ人への手紙10章1節
兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。

 ↑これは使徒パウロがユダヤ人、異邦人に求めたことです。

 ヨハネの手紙第三 4節
 私の子どもたちが真理に歩んでいるのを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

 これはヨハネのことばですけど、イエス様を大切に歩んでいく、神様と主に歩んでいく・・・繰り返し繰り返し、いろんな場面で悔い改めなければならない。生活の場面で間違っているならば。

 先週、「追憶」という冊子が送られてきました。(中略)その中に、ある人の4番目のお子さんの思い出が書いてある。

「私の母を一言で表現するなら、良妻賢母です。・・・その母との思い出で一番よく覚えているのは、怒られた時のことです。・・・包丁を片手に「お前の手を切り落とすか?」と迫ったのです。・・・」

 このお母さんは、母として悔い改めを迫ったんですね。そして今、この人はクリスチャンとして歩んでいます。

 

 世の中には色々な喜びがある。その中でも悔い改めの喜びを大切に生きていきたいと思います。
 長くて大変なので、書こうかどうか迷ったけど書きます。

 ルカによる福音書14章34〜35節

 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。


 今から10年前後前、私たちの教会から夏になるとアメリカにホームステイに行っていました。シアトルの教会にジョージというとても親切な人がいた。その人が日本に旅行に来たことがある。そして通訳をしていて、ジョークとか突拍子のないことを言われて困ったことがある。普通なら予想して訳せるけど・・・。

 「紅茶と砂糖が戦争を始めました。」と言われ、不安だったけど訳した。「どっちが強いか競争しよう。コップに砂糖を入れた。そこに紅茶を入れたら消えたので、砂糖が負けてしまった。でも、飲んでみると甘かった!砂糖が勝った!」

 砂糖と塩でちがうけど・・・。私たちは自分が中心で、自分を消す、自分(自我)を殺すってことがない。

 毎年教職セミナーがあります。必ずプログラムの中に説教がある。ある時40代中ごろの人が説教をした。

 「聖書には自分(自我)を殺せと書いてあります。でも、どうしても自分に死ぬことが出来ません!!」と、繰り返し繰り返し、ただ叫んで泣いていた。30分もですよ!驚きました。イエス様は自分に死ぬように仰っておられる。それはイエス様ご自信がそうされたからです。

 ピリピ人への手紙2章6〜8節

 キリストは、神の御姿であられるの方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。


 先に地の塩のように生きられたのです。ご自分を無にして!ご自身を殺される、無にする。なぜそうされたのか。それは愛があったからです。

 「健やかなる時も、病めるときも」
という本。この本の著者は、私が神学校に入学した時、学長をしておられた。とてもざっくばらんな先生で、家へ遊びに行ったら、大きな水槽に蛇が飼ってあった。
 仕事を終えてアメリカに帰った。大学と大学院、二つの学校の学長になられたんです。しかし学長として働いている間に、奥さんがアルツハイマーになられたんです。

 どうしようか?この妻と一緒にいようか、学長を続けようか?

 
 多くの人が「学長は大切な仕事なので続けてください。」と言ってくれたけど、妻に付いていられるのは、自分しかいない。それで学長職を捨てて、奥さんを採られた。愛しておられたから。

 もし、愛無くして学長を辞めるとなると、簡単に手放すことができないと思うのです。もう一度、ルカ14章34節を読みましょう。(↑を参照してください)

 

 塩気とはなんだろうか?

 要するに、イエス様を信じて、イエス様に従って生きていく。

 家庭でどうでしょう?学校で、あるいは教会で・・・。私たちはそういう問題を持っているかも知れない。夫婦喧嘩でどっちが悪いと決めるのは難しい。両方が正しいし、両方に分がある。

 「この夫に耐えてきた、という妻に耐えてきた。」

 
 そういう中で、謝るんです。しかし、両方が「自分が正しい」と思う限り、謝ることができない。メンツがある。そこで問われることが愛だと思うんです。

 愛っていうものによって、視野が広がることもあると思うんです。

 ちょっとメモを書いて置くんです。あるいは手紙をしたためて、最近ならメールでもいいと思うんです。

 イエス様がそうされた。神様であられるにも関らず、自分を無にして私と同じようになってくださった。ご自分を無にするときに、イエス様に近づくことが出来るんではないでしょうか。

 出来ないことを「しなさい」と言っているのではなく、イエス様ご自信がなされたことをする時、クリスチャンの意味が薄くなくなるんです。
 昨日はルカによる福音書からのメッセージだった。

さて、大勢の群集がイエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、私の弟子になりことができません。
自分の十字架を負ってわたしについてこない者は、わたしの弟子になることはできません。

               ルカ14章25〜27節

 神様の約束である聖書を信じるだけでなく、イエス・キリストは従うことを求めている。イエス・キリストについていく。つまり従っていかなければならない。従うってことがなければ、弟子ではない。つまりクリスチャンではないとまで言っている。

 世の中、様々な宗教があるけど、共通点は神様を信じれば幸せになるということ。

 私達が期待して信じるのは、1つは無病息災。いつも元気で健康であること。

 2つ目は家内安全。夫婦や親子が仲良くできるように。

 その次が商売繁盛。「神様、よろしくお願いします。」と願う。

 もう一つは、安心立命。・・・そういった事柄は、全ての宗教において、誰もが求めている。クリスチャンも例外ではない。けれどもイエスは信じるというレベルにとどまるのではなく、従うことを求めている。自分の十字架とは・・・?

 マタイによる福音書26章38,39節。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないでわたしといっしょに目をさましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。


 これがイエス様の十字架なんです。関わりたくない、イエス様ご自身、「この杯をわたしからさらせてほしい」と言った。しかし、「あなたのみこころの通りにしてください。」と言っている。

 神様の為に犠牲を払わなければならない。信じることによって、幸せをいただく。しかし、従うときに自分に不利になる状況が出てくる。イエス・キリストに従うってことは、先ほどの4つの「家内安全」が覆される。イエス・キリストを信じ、従うって時に、不安や決裂が生じることを語っているんですね。

 
 5月5日の木曜日に、○×キングスガーデン(老人ホーム)に行ってきました。妻の母がそこにいるんで。でも彼女は会っても自分の娘だと分からないんですね。娘の夫である私のことも分からない。声をかけながら、妻が母に食事を与える。幸せそうだなぁと、みんなも見ていると思う。

 しかし高校生の時に、教会へ行くことを一番反対したのが母でした。将来牧師になる、私と結婚することを一番反対したのも母でした。その時に妻は、この14章24節を体験したんですね。

 家族を選ぶのか、信仰を選ぶのか。しかし妻は従って行った。

みなさん、従うっていうのは、苦しいことでしょうか?

 暴君に従うっていうのは、とてもとても苦しい事。けれども、愛する人に従うっていうのは、嬉しいことではないでしょうか?従うっていうことは、犠牲を払わなくてはならない。けれども自分の犠牲を見るとクローズアップされるけど、イエス・キリストの犠牲、十字架の死を思えば、自分の犠牲は小さく見えるのではないでしょうか。

(中略)

 田原米子さんは投身自殺をして、片腕と両足を失い、残ったのはもう片方の腕と指が3本でした。ご主人である田原牧師が苦労したと思うんです。しかし葬儀の時に、「米子との歩みは本当に楽しかったです。」と言っていた。

 イエス・キリストに従う信仰も、そのようなものではないでしょうか?
 ルカによる福音書13章10〜17節より

 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことができない女がいた。 
 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」といって、
 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
 すると、それを見ていた会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群集に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうが良い。安息日には、いけないのです。
 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。
 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群集はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。


「論語読みの、論語知らず。」「親の心、子知らず」という言葉があります。神様の本当の心がどこまで解っているのだろうか?今日の題は「大切なものを見る力」にしました。

 何がより大切か、そして大切ではないか、見分けていく力は必要。私たち一人一人も持ちたい。

 さて、10節。
丁度今日と似たような状況かもしれません。聖書が解き明かされていくわけです。そこに、18年間も腰の曲がった状態で、患っていた人がいた。会堂管理者は、牧師のような立場の人という風に考えていただいて良いと思います。

 出エジプト記20章8〜11節
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。  六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどの仕事もしてはならない。  あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。
それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。


 会堂で解き明かされるのは聖書なんです。そして、会堂管理者として守ってきたと思うんです。しかし、イエス様がこの教えを破ったので、憤った。でもここには、「論語読みの論語知らず」的な過ちがある。

 このような戒めを、文字通り守っていればいいのか?何故に、この戒めがあるのか、ということです。

 マタイによる福音書22章36〜40節
「先生。律法の中でたいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。


 ま、聖書全体を集約すれば、この二つに尽きる、ということです。
 私たちは、神様を忘れ易いわけです。だから、1週間に1回、このようにして安息日を覚えて、神様を愛していく、ということなんです。この腰の悪い女性に、安息日に働きかけるか、何もしないかが問われる。

 ルカ13章15,16節、ここに神様の心がある、と証明された。

 信仰の世界でも、自分は熱心だと思っていても、「親の心、子知らず。」的なこと、やっているかもしれません。

 あるセミナーでは、新しい牧師がみんなの前で説教して、批評するわけです。楽しくも厳しい時です。
 若い牧師が、「この聖書のテキストにおいて、主役は悪霊につかれた人です。」と言うので、私、コメントさせていただきました。「本当にそうでしょうか?聖書には、色々な人が出るけれども、主役はイエス・キリストです。」
 
 登場人物として、光が当てられるけれども、どこにおいても聖書における主役は、イエス様なんですね。

 そのセミナーである先生が、リーダーシップに関して、5つの要件を話してくださった。全部は紹介出来ませんが1つは、teachable人から教えられる人でなければいけない。13章でも、イエス様は教えているんですね。私たちがイエス様からどれだけ、教えられ易い者となっているか。会堂管理者も間違っていたわけです。指摘されて、恥じ入って、どうするか?かたくなになるか、悔い改めるか・・・。

私たち人間のモノの見方は、常に不十分です。本当に正しく、見せて下さるのは、イエス様です。見る力を養っていきましょう。

 

・・・この説教を聴いて、私はちみつは、平日に何の仕事も終わらせていないでいることを恥じ入りました。

 この文章、端から端まで全て手打ちですけど、出エジプトを打ちながら、本当に反省しました。家事は嫌いだけど、ADHDだからって、やるべき事から逃げすぎなので、もっと立ち向かわなければ・・・と思った。
 題 「信仰の実を結ぶ」  ルカによる福音書13章6〜9節より

 イエスはこのようなことを話された。
ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。3年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
番人は答えて言った。『ご主人。どうか、今年一年そのままにしてやってください。木の周りを掘って、肥やしをやってみますから。
もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら切り倒してください。』」


 30分くらいある、長い説教を纏めるのって、けっこう大変だけど、たまには日記に書きたいので頑張ってみる。

 聖書の他の箇所によると、人にはそれぞれ「タラント」(タレントの語源)があって、3つ共通するうちの一つは、「預かっている」ということ、二つめは5タラント、2タラント、1タラントと「差があること」、3つめは、「必ず問われる」ということ。

 私自身、あなた自身の、能力、家族、みんな与えられているけど、自分の願うところではなく、神様のために使おうとするとき、神様が用いてくださる。
 
 ヨブが解りやすい例。たくさんの財産があったけど、全てとられてしまった。

私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
ヨブ記1章21節

 ある、他の牧師先生は、老人ホームをいくつも運営している。私たち普通の牧師には、なかなか真似できない。

 ご飯に一緒に行くと、おごるんですね。とても真似できない。でも聖書によると、人それぞれなんだなぁと知る。

 ある人は5タラント、ある人は2タラント、ある人は1タラントしかない・・・それでもいいのです。ちがうんです。無理しなくていいんです。人と比べなくていいんです。

 私たち人間は、必ず死ななければなりません。「あずけた物は、どのように用いた?」と聞かれる時が来る。

 私たちも、実を結ぶ歩みを、共にしていきたいと思います。

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