最近、読書と宛名書きがいそがしいのを言い訳に、聖書を2ヶ月くらいまともに読んでなかったから、どこを読もうか迷ってた。

 宛名書きも、毎日10枚ずつ出来ればいいのに、溜め込んじゃってるから、「また今日も書いてない!」ってことになる。でも今日は掃除もある程度してあるし、12月入ってしまったのであとで必ず宛名書きしよう。

 書きたいことは後にして、ホセア書の感想から書こうかな。その前に、ホセア書とは・・・旧約聖書で預言者ホセアに啓示された預言が収録されている。著者が誰であるか、特別な言及はない。(エッセンシャル聖書辞典より)

 がホセアに語り始められたとき、主はホセアに仰せられた。「行って、姦淫の女をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ。
                   1章2節

 私は、ホセア書は正直好きでも嫌いでもない。「姦淫の女」なんて表現は好きではない。

 
 若い頃、当時付き合っていた彼氏に「一回でいいから・・・。」と言うので気を許してしまったことがある。彼は私の知ってる教会のすぐ近所に住んでたので、教会に誘っていた。そして一緒に教会に行く約束までしていたのに私が「もう二度と出来ない。結婚するまでは。」と言うと、「お互いに愛し合っているのに、何がいけないんだ。愛する気持ちよりも、信じることのほうが重くなった。」といって、ふられてしまった。

 教会では戒規処分になった。聖餐式ではパンとブドウ酒をとってはいけなくなるし、みんなと一緒の食事にも参加しちゃいけない。教会に来ているのに孤立した。

 最近思うのは、「姦淫」て、相手がいて、自分がいる。二人ですることなのに、いつも責められるのは教会員の人だけ。相手には何のお咎めもなし。そんなのおかしいと思う。相手もクリスチャンなら、その人の教会で咎められるだろうけど。処分だけして、やってしまった人の「言い分」には耳を傾けてもらえない。こちらも責められてばかりで疲れて、語る気にもなれなくなる・・・。

 そんなこんなで教会を離れていった人たちは、意外と多いと思う。

 とにかく、姦淫は聖書の時代からあること。誰もしないのなら、あえて「してはならない。」とは言わない。

 でも罪だと解っててもしてしまうのは、いろいろな理由があると思う。「お互いに好きだから。」「寂しいから。」「ふりたくも、ふられたくもなかったから。」「我慢できなかったから。」

 十戒の、「殺してはならない。」「盗んではならない。」はみんな守れているのに、「姦淫してはならない。」に関しては、世間の殆どの人が罪だとも思っていない。結婚もしたいときにすればいいというこのご時勢。

 「結婚はすばらしい!」という考えがもっと広まってほしいな!
  

 

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