信じ、従う信仰 (昨日の礼拝の説教)
2005年5月9日 礼拝の説教 昨日はルカによる福音書からのメッセージだった。
さて、大勢の群集がイエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、私の弟子になりことができません。
自分の十字架を負ってわたしについてこない者は、わたしの弟子になることはできません。
ルカ14章25〜27節
神様の約束である聖書を信じるだけでなく、イエス・キリストは従うことを求めている。イエス・キリストについていく。つまり従っていかなければならない。従うってことがなければ、弟子ではない。つまりクリスチャンではないとまで言っている。
世の中、様々な宗教があるけど、共通点は神様を信じれば幸せになるということ。
私達が期待して信じるのは、1つは無病息災。いつも元気で健康であること。
2つ目は家内安全。夫婦や親子が仲良くできるように。
その次が商売繁盛。「神様、よろしくお願いします。」と願う。
もう一つは、安心立命。・・・そういった事柄は、全ての宗教において、誰もが求めている。クリスチャンも例外ではない。けれどもイエスは信じるというレベルにとどまるのではなく、従うことを求めている。自分の十字架とは・・・?
マタイによる福音書26章38,39節。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないでわたしといっしょに目をさましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。
これがイエス様の十字架なんです。関わりたくない、イエス様ご自身、「この杯をわたしからさらせてほしい」と言った。しかし、「あなたのみこころの通りにしてください。」と言っている。
神様の為に犠牲を払わなければならない。信じることによって、幸せをいただく。しかし、従うときに自分に不利になる状況が出てくる。イエス・キリストに従うってことは、先ほどの4つの「家内安全」が覆される。イエス・キリストを信じ、従うって時に、不安や決裂が生じることを語っているんですね。
5月5日の木曜日に、○×キングスガーデン(老人ホーム)に行ってきました。妻の母がそこにいるんで。でも彼女は会っても自分の娘だと分からないんですね。娘の夫である私のことも分からない。声をかけながら、妻が母に食事を与える。幸せそうだなぁと、みんなも見ていると思う。
しかし高校生の時に、教会へ行くことを一番反対したのが母でした。将来牧師になる、私と結婚することを一番反対したのも母でした。その時に妻は、この14章24節を体験したんですね。
家族を選ぶのか、信仰を選ぶのか。しかし妻は従って行った。
みなさん、従うっていうのは、苦しいことでしょうか?
暴君に従うっていうのは、とてもとても苦しい事。けれども、愛する人に従うっていうのは、嬉しいことではないでしょうか?従うっていうことは、犠牲を払わなくてはならない。けれども自分の犠牲を見るとクローズアップされるけど、イエス・キリストの犠牲、十字架の死を思えば、自分の犠牲は小さく見えるのではないでしょうか。
(中略)
田原米子さんは投身自殺をして、片腕と両足を失い、残ったのはもう片方の腕と指が3本でした。ご主人である田原牧師が苦労したと思うんです。しかし葬儀の時に、「米子との歩みは本当に楽しかったです。」と言っていた。
イエス・キリストに従う信仰も、そのようなものではないでしょうか?
さて、大勢の群集がイエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、私の弟子になりことができません。
自分の十字架を負ってわたしについてこない者は、わたしの弟子になることはできません。
ルカ14章25〜27節
神様の約束である聖書を信じるだけでなく、イエス・キリストは従うことを求めている。イエス・キリストについていく。つまり従っていかなければならない。従うってことがなければ、弟子ではない。つまりクリスチャンではないとまで言っている。
世の中、様々な宗教があるけど、共通点は神様を信じれば幸せになるということ。
私達が期待して信じるのは、1つは無病息災。いつも元気で健康であること。
2つ目は家内安全。夫婦や親子が仲良くできるように。
その次が商売繁盛。「神様、よろしくお願いします。」と願う。
もう一つは、安心立命。・・・そういった事柄は、全ての宗教において、誰もが求めている。クリスチャンも例外ではない。けれどもイエスは信じるというレベルにとどまるのではなく、従うことを求めている。自分の十字架とは・・・?
マタイによる福音書26章38,39節。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないでわたしといっしょに目をさましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。
これがイエス様の十字架なんです。関わりたくない、イエス様ご自身、「この杯をわたしからさらせてほしい」と言った。しかし、「あなたのみこころの通りにしてください。」と言っている。
神様の為に犠牲を払わなければならない。信じることによって、幸せをいただく。しかし、従うときに自分に不利になる状況が出てくる。イエス・キリストに従うってことは、先ほどの4つの「家内安全」が覆される。イエス・キリストを信じ、従うって時に、不安や決裂が生じることを語っているんですね。
5月5日の木曜日に、○×キングスガーデン(老人ホーム)に行ってきました。妻の母がそこにいるんで。でも彼女は会っても自分の娘だと分からないんですね。娘の夫である私のことも分からない。声をかけながら、妻が母に食事を与える。幸せそうだなぁと、みんなも見ていると思う。
しかし高校生の時に、教会へ行くことを一番反対したのが母でした。将来牧師になる、私と結婚することを一番反対したのも母でした。その時に妻は、この14章24節を体験したんですね。
家族を選ぶのか、信仰を選ぶのか。しかし妻は従って行った。
みなさん、従うっていうのは、苦しいことでしょうか?
暴君に従うっていうのは、とてもとても苦しい事。けれども、愛する人に従うっていうのは、嬉しいことではないでしょうか?従うっていうことは、犠牲を払わなくてはならない。けれども自分の犠牲を見るとクローズアップされるけど、イエス・キリストの犠牲、十字架の死を思えば、自分の犠牲は小さく見えるのではないでしょうか。
(中略)
田原米子さんは投身自殺をして、片腕と両足を失い、残ったのはもう片方の腕と指が3本でした。ご主人である田原牧師が苦労したと思うんです。しかし葬儀の時に、「米子との歩みは本当に楽しかったです。」と言っていた。
イエス・キリストに従う信仰も、そのようなものではないでしょうか?
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