長くて大変なので、書こうかどうか迷ったけど書きます。

 ルカによる福音書14章34〜35節

 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。


 今から10年前後前、私たちの教会から夏になるとアメリカにホームステイに行っていました。シアトルの教会にジョージというとても親切な人がいた。その人が日本に旅行に来たことがある。そして通訳をしていて、ジョークとか突拍子のないことを言われて困ったことがある。普通なら予想して訳せるけど・・・。

 「紅茶と砂糖が戦争を始めました。」と言われ、不安だったけど訳した。「どっちが強いか競争しよう。コップに砂糖を入れた。そこに紅茶を入れたら消えたので、砂糖が負けてしまった。でも、飲んでみると甘かった!砂糖が勝った!」

 砂糖と塩でちがうけど・・・。私たちは自分が中心で、自分を消す、自分(自我)を殺すってことがない。

 毎年教職セミナーがあります。必ずプログラムの中に説教がある。ある時40代中ごろの人が説教をした。

 「聖書には自分(自我)を殺せと書いてあります。でも、どうしても自分に死ぬことが出来ません!!」と、繰り返し繰り返し、ただ叫んで泣いていた。30分もですよ!驚きました。イエス様は自分に死ぬように仰っておられる。それはイエス様ご自信がそうされたからです。

 ピリピ人への手紙2章6〜8節

 キリストは、神の御姿であられるの方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。


 先に地の塩のように生きられたのです。ご自分を無にして!ご自身を殺される、無にする。なぜそうされたのか。それは愛があったからです。

 「健やかなる時も、病めるときも」
という本。この本の著者は、私が神学校に入学した時、学長をしておられた。とてもざっくばらんな先生で、家へ遊びに行ったら、大きな水槽に蛇が飼ってあった。
 仕事を終えてアメリカに帰った。大学と大学院、二つの学校の学長になられたんです。しかし学長として働いている間に、奥さんがアルツハイマーになられたんです。

 どうしようか?この妻と一緒にいようか、学長を続けようか?

 
 多くの人が「学長は大切な仕事なので続けてください。」と言ってくれたけど、妻に付いていられるのは、自分しかいない。それで学長職を捨てて、奥さんを採られた。愛しておられたから。

 もし、愛無くして学長を辞めるとなると、簡単に手放すことができないと思うのです。もう一度、ルカ14章34節を読みましょう。(↑を参照してください)

 

 塩気とはなんだろうか?

 要するに、イエス様を信じて、イエス様に従って生きていく。

 家庭でどうでしょう?学校で、あるいは教会で・・・。私たちはそういう問題を持っているかも知れない。夫婦喧嘩でどっちが悪いと決めるのは難しい。両方が正しいし、両方に分がある。

 「この夫に耐えてきた、という妻に耐えてきた。」

 
 そういう中で、謝るんです。しかし、両方が「自分が正しい」と思う限り、謝ることができない。メンツがある。そこで問われることが愛だと思うんです。

 愛っていうものによって、視野が広がることもあると思うんです。

 ちょっとメモを書いて置くんです。あるいは手紙をしたためて、最近ならメールでもいいと思うんです。

 イエス様がそうされた。神様であられるにも関らず、自分を無にして私と同じようになってくださった。ご自分を無にするときに、イエス様に近づくことが出来るんではないでしょうか。

 出来ないことを「しなさい」と言っているのではなく、イエス様ご自信がなされたことをする時、クリスチャンの意味が薄くなくなるんです。

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