何かと忙しくて書けなかったから、やっと書けて嬉しいです!

 
 皆さんはこの「放蕩息子」の物語を、どれくらい聞いて、どれくらい読んで来られたのでしょうか。私は中学生の頃の話ですが、ある牧師婦人が話す放蕩息子の話がとても解り易かったのを覚えています。それから50年の間、何度読んだか、何度聞いたか、何度説教したかわかりません。その度に新しい響きがあります。皆さんも一緒に体験したいと思います。

 
 私もこの放蕩息子と殆ど同じでした。一つだけ違うのは、父親は牧師で財産がない、家出をしたけどたちまち行き詰った。自殺しようとしたけど出来ず、教会に逃げ込んでそして救われた。

 反抗して、家出して、ごめんなさい・・・同じことをした。多分形は違うけど、放蕩息子と姿をダブらせて考えることが出来るんではないでしょうか。そして私は兄とも一緒。

 父は息子が帰って来て大喜びしたんです。けど兄は一緒に喜べなかった。よく、不幸な人にやさしくすることはできる。しかし試験に受かった人に口では「おめでとう」と言っても、心から喜んではいない。あるいは、とても元気で生き生きとして、明るく元気な家庭、仕事や商売もうまくいっている人に、「良かったですね!」と一緒に喜ぶことが出来ない。

 憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。
 しかし、ねたみの前には
 だれが立ちはだかることができよう。
箴言27章4節

 この箴言の言葉は今でも言えること。格言ですから。

 イエス様が殺されたのは、ねたみによった。ねたみによって捕らえられて、そのようにされた。ヨハネもパウロもそうです。ユダヤ人から反対され、迫害されたのはねたみによる。

 この弟息子もねためまれている。父の、このたしなめる言葉が、どれだけ届いたでしょうか。この兄に重ねて語り、この弟に重ねて語ってきました。けれども父親に重ねて語ったことはなかった。

 父とは神様のことです。

 3人の登場人物。弟は悔い改めること、兄はねたみを悔い改めること、父は広い心で哀れみ深く生きるように許すということですね。

 弟は父の心を踏みにじった。そしてノコノコと帰って来た。裏切られた。恥をかいた。どの面下げてきたのか。もう敷居はまたがせないと言うかもしれない。ところが20節で父の方から行った。そしてまたところが22節で息子を赦し、受け止めているんです。

 兄息子はまず、弟を赦せない。父を赦せない。そうして世界を狭めている。そのような心を持っている兄息子が一番不幸。

 父は私と同じようになってほしい。それがどんなに幸せになれるか。この父親の姿。この哀れみ深い心を持って受け入れる者。

 どうすればいいか。一つは弟息子を原点として生きるならば、他の人を赦すことができる。自分が赦されたから、赦すことができる。第二は、父はたしなめてくれている。それに耳を傾ける。自分を軌道修正して、だんだんと神様に似た者になることが出来るんではないでしょうか。

 そうなれたらと思います。

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