恵み深い神の発見―マタイ20章1節〜16節より
2005年8月11日 礼拝の説教
夕方に書いてたのが全部消えちゃって凹んだけど、再度挑戦!!ってか、3回くらいに分けて書きます。
聖書を読んでいくときに、納得できない所が色々あります。例えば悪いことをした人が得をするなど。聖書が言ってることが、ちょっとおかしいと思うけど、本当はそこが聖書らしい。
(このキャンプで)毎回練習している「ああ驚くべきイエスの愛よ」も恵みを歌っている。
ぶどう園の主人が、朝(6時にしましょうか)から人を雇って働かせるのです。12時と3時にも雇われて、5時になっても雇われる。そして6時になった時に、5時から1時間働いた人が1デナリもらった。並んでたみんなは期待したでしょうね。でも朝から働いた人にも1デナリ。「私はあなたに不当なことはしていない。(中略)あなたはねたましいのか。」
皆さん、このお話をどう感じましたか?私たちの社会でこういう人がいたら、労働組合で文句を言われる。あるいは皆さんの中に、この主人を素晴らしいと思う人がいるでしょうか。実は、あなたがどの立場に立っているかで、違うんですね。
私は大学時代にですね、ギターやウクレレを練習しててですね、ドイツ語の単位を取れなかった。私が教授に頼み込んだら単位をくれた。それをほかの人に言ったら、「えーっ!俺もお前も同じか!」といわれた。
神様の恵みというのは、朝から働いてる人にはわからない。5時から男にわかる。私たちの社会で考えますと、沢山働いた人は沢山もらえる。この聖書を読んだ人が真似をすると、その会社は倒産します。
宗教では沢山やれば、沢山祝福される。これで繁盛する。エホバの証人は、神様の期待に応えて一生懸命やれば報われる。しかし、聖書の神様は、恵み深いんです。これがテーマなんです。
恵みというのは、資格がない者に与えられる。
聖書が何度も何度も私たちに言うのが、私たち罪人(つみびと)だということ。これが嫌だという人もいるけれど、子どもが親を裏切って出て行く、これが罪。
放蕩息子のお話を思い出してください。本当は、財産というのは、亡くなってからもらうのに、生きてるうちにもらって出ていく。神様と縁がなくなる、これが罪人。
私たちはもう神様なんて知らないっていう顔して生きているけれども、昨夜も言ったように、神様の恵みによって生きている。
神様を知らない、離れた生き方は、いつしか破綻が来る。さっきお話しました放蕩息子も、お金がなくなって落ちぶれました。ハッと気が付く。お父さんの所から出てきたのが間違いだった。しかしこの息子は雇い人にしてもらえるかも知れないと帰る。
そして息子が帰った時に、お父さんの方から駆け寄り、新しい服を着せて、「よく帰って来てくれた!」と言って祝福する。
私たちはもっともっと素晴らしい生き方が出来る者なんです。お父さんの交わりの中に生きるのが、本来の姿なんです。
イエス様はそのことを知らせるために生まれて来られたんです。イエス様が十字架についていた時、「十字架から下りてみろ!」といわれた。しかし、「父よ、この人をお赦しください。この人は自分で何を言っているのか、わからないのです。」といわれた。
アメージング・グレイスの作者のジョン・ニュートンを知っているでしょう。奴隷を売って、良心の痛みを感じてなかった。しかし後に、嵐の中で神様を信じて救われて、牧師になった。
神様助けてくださいって言う人が、神様の恵みがわかります。
「おどろくばかりの」(アメージング・グレイス)の歌は、クリスチャンじゃない人もたくさん歌ってるんですね。名古屋のライブハウスでアヤドチエさんに歌ってもらった。彼女は1番しか歌わない。2番3番の意味がわからないらしい。
おどろくばかりの恵みなりき
この身のけがれを知れる我に
本当にそうですよ。100%神様の恵み。じゃあ、私たち何もしなくていいのか。私たち一つだけすることがあります。差し上げますといわれたら、手を出して受け取る、手を出すこと。これだけなんです。これが難しいんです。さっきの放蕩息子のお話で、兄息子がそう。私のために牛一頭ほふってもらえないという。私たちみーんなプライドがある。しかしよ〜く考えてみてください。私たち本当は受ける資格がない。
強盗さんが天国第一号です。私もね、クリスチャンになったのが、22歳の時なんです。数学とか、化け学とかが好きで、エンジニアになろうと思ってた。その頃、ミッションスクール出た人が、キリスト教もあるぞと。
そして釧路で教会に行こうかなぁと思った。初めて聞いたけど、なんとなく解ってきたんです。私は何か知らないけど、伝道集会で一番最初に前に行って、祈ってもらったんです。
わずか4ヶ月の間に救われたんです。何も悪いこともしてないし、悩みもなかったんです。そして神様は私を包んで、さらにさらに高くしてくださった。
一番大事なのは、「はい。」と言って、神様の恵みを手を出して受け取る事なんです。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。エペソ人への手紙2章8節
聖書を読んでいくときに、納得できない所が色々あります。例えば悪いことをした人が得をするなど。聖書が言ってることが、ちょっとおかしいと思うけど、本当はそこが聖書らしい。
(このキャンプで)毎回練習している「ああ驚くべきイエスの愛よ」も恵みを歌っている。
ぶどう園の主人が、朝(6時にしましょうか)から人を雇って働かせるのです。12時と3時にも雇われて、5時になっても雇われる。そして6時になった時に、5時から1時間働いた人が1デナリもらった。並んでたみんなは期待したでしょうね。でも朝から働いた人にも1デナリ。「私はあなたに不当なことはしていない。(中略)あなたはねたましいのか。」
皆さん、このお話をどう感じましたか?私たちの社会でこういう人がいたら、労働組合で文句を言われる。あるいは皆さんの中に、この主人を素晴らしいと思う人がいるでしょうか。実は、あなたがどの立場に立っているかで、違うんですね。
私は大学時代にですね、ギターやウクレレを練習しててですね、ドイツ語の単位を取れなかった。私が教授に頼み込んだら単位をくれた。それをほかの人に言ったら、「えーっ!俺もお前も同じか!」といわれた。
神様の恵みというのは、朝から働いてる人にはわからない。5時から男にわかる。私たちの社会で考えますと、沢山働いた人は沢山もらえる。この聖書を読んだ人が真似をすると、その会社は倒産します。
宗教では沢山やれば、沢山祝福される。これで繁盛する。エホバの証人は、神様の期待に応えて一生懸命やれば報われる。しかし、聖書の神様は、恵み深いんです。これがテーマなんです。
恵みというのは、資格がない者に与えられる。
聖書が何度も何度も私たちに言うのが、私たち罪人(つみびと)だということ。これが嫌だという人もいるけれど、子どもが親を裏切って出て行く、これが罪。
放蕩息子のお話を思い出してください。本当は、財産というのは、亡くなってからもらうのに、生きてるうちにもらって出ていく。神様と縁がなくなる、これが罪人。
私たちはもう神様なんて知らないっていう顔して生きているけれども、昨夜も言ったように、神様の恵みによって生きている。
神様を知らない、離れた生き方は、いつしか破綻が来る。さっきお話しました放蕩息子も、お金がなくなって落ちぶれました。ハッと気が付く。お父さんの所から出てきたのが間違いだった。しかしこの息子は雇い人にしてもらえるかも知れないと帰る。
そして息子が帰った時に、お父さんの方から駆け寄り、新しい服を着せて、「よく帰って来てくれた!」と言って祝福する。
私たちはもっともっと素晴らしい生き方が出来る者なんです。お父さんの交わりの中に生きるのが、本来の姿なんです。
イエス様はそのことを知らせるために生まれて来られたんです。イエス様が十字架についていた時、「十字架から下りてみろ!」といわれた。しかし、「父よ、この人をお赦しください。この人は自分で何を言っているのか、わからないのです。」といわれた。
アメージング・グレイスの作者のジョン・ニュートンを知っているでしょう。奴隷を売って、良心の痛みを感じてなかった。しかし後に、嵐の中で神様を信じて救われて、牧師になった。
神様助けてくださいって言う人が、神様の恵みがわかります。
「おどろくばかりの」(アメージング・グレイス)の歌は、クリスチャンじゃない人もたくさん歌ってるんですね。名古屋のライブハウスでアヤドチエさんに歌ってもらった。彼女は1番しか歌わない。2番3番の意味がわからないらしい。
おどろくばかりの恵みなりき
この身のけがれを知れる我に
本当にそうですよ。100%神様の恵み。じゃあ、私たち何もしなくていいのか。私たち一つだけすることがあります。差し上げますといわれたら、手を出して受け取る、手を出すこと。これだけなんです。これが難しいんです。さっきの放蕩息子のお話で、兄息子がそう。私のために牛一頭ほふってもらえないという。私たちみーんなプライドがある。しかしよ〜く考えてみてください。私たち本当は受ける資格がない。
強盗さんが天国第一号です。私もね、クリスチャンになったのが、22歳の時なんです。数学とか、化け学とかが好きで、エンジニアになろうと思ってた。その頃、ミッションスクール出た人が、キリスト教もあるぞと。
そして釧路で教会に行こうかなぁと思った。初めて聞いたけど、なんとなく解ってきたんです。私は何か知らないけど、伝道集会で一番最初に前に行って、祈ってもらったんです。
わずか4ヶ月の間に救われたんです。何も悪いこともしてないし、悩みもなかったんです。そして神様は私を包んで、さらにさらに高くしてくださった。
一番大事なのは、「はい。」と言って、神様の恵みを手を出して受け取る事なんです。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。エペソ人への手紙2章8節
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