それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。


 Then Jesus said to His disciples,
“If anyone desires to come after Me, let him deny himself, and take up his cross, and follow Me.


 
 私が皆さんの前でよく口にする川柳で、
神様は、合格したら 縁切られる。というのがあります。ご利益的な信仰を浮き彫りにしている。私たちはこの川柳で笑いますが、私たちに当てはまることはないでしょうか。

 ペテロの「あなたは生ける神の御子キリストです。」という告白が16章16節にあります。イエス様は神の子なんだ、救い主なんだ、と告白して生きていく。イエスをキリスト(救い主)として信じる信仰告白の上に立っているのが教会なんです。私たちが集まっているのは、信仰を持って生きている。幸いだといっている。イエス様がこのようなことを仰ったのはここが初めて。(17節)

 21節イエス・キリストはご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

 おどろくべきこと。自分達が描いてきたメシヤ像とは全く違う。あの川柳に通じるものがペテロにあったかもしれません。

 私たちも神様とはこういうものだ、教会とはこういうものだ、というイメージを持ってる。ペテロはどういう態度をとったんでしょう。

「そんなはずは、ありません!」と否定した。そしてイエス様をいさめたんです。その時、イエス様は「下がれ。サタン。」と言っている。ついさっきは「あなたは幸いだ。」と言っていたのに。

 なぜ、そのように叱責をされたのか。「誰でもわたしについて来たいと思うなら・・・」ここで縁を切られるんです。なぜなら損をするからです。

 誰も十字架を好んで欲してはいない。十字架は負わなければならないんです。しかし、負うことの出来ないような十字架ではないんです。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)
 十字架は苦しいかもしれない、けれども負える程度のもの。では十字架とはなんでしょうか?

 「自分の十字架を負って・・・」と言っている。ある人は重い病気かもしれない。いずれにしても神様に従って生きていく時に負うもの。

 新しい家庭というのは、大変なことです。私は毎年毎年、離婚を調べているんです。戦後60年、毎年毎年離婚が増えているのです。クリスチャンだから大丈夫、とは言えないのです。同じ人間ですから。皆さんの中には教会で式を挙げた人がいるかもしれません。誓約の「病める時も・・・」というのは、不利な時のことなんです。そういう時も一緒にいる、と誓約したんです。

 イエス・キリストが人を救うために十字架を背負われた。私も健やかな時も、病める時も、体験してきました。私がどれだけ妻に苦労をかけたか、知れません。健やかな時に、共に楽しみ、共に喜ぶのは出来る。しかし病める時も共に歩む・・・十字架を負って歩むって、そういうことではないでしょうか。

 それは、苦しいってものだけではなくて、それはむしろ慕わしいものに変えられていくんです。私たちもまた、十字架を負いたいと思う。

 教会が花嫁であり、キリストが花婿だから、そうしたいと思う。昨日も青年達が子どもたちと一緒にゲームしたり、楽しんだりしてくれた。疲れているかもしれないのに。

 エペソ人への手紙1章23節
 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 教会を愛するっていうのは、イエス様を愛するってことなんです。イエス様は言いました。(冒頭参照ください)

 
 最後に27節。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

 十字架を負って歩むほどに愛するなら、神様はちゃ〜んと見て評価していてくれる。高みから見てるんではありません。私たちと一緒に十字架を負っているのです。ですから十字架の道というのは慕わしいのです。

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