イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。誰を探しているのですか。」彼女はそれを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

ヨハネの福音書20章15節


 はじめに。

 いつも私、はちみつの、つまらない日記に目を通して下さり、ありがとうございます。

 私が「礼拝の説教」を書くときは、いつもなら自分の耳で聞き取った内容をそのままノートに取り、それを今度は自分の両手でこの日記に書きこんでいるわけなんですが、今回はとても早口でしたので、コピーを貼らせて頂くことにしました。

 
 これより先、コピーです。

 はじめまして、○×△教会の皆様。本日は、証しの場をお与えくださり、光栄
に思っております。日頃より尊敬申し上げております○×牧師先生の教会で、皆
様とご一緒に主を礼拝できる恵みにあずからせていただけることに、心から感謝
申し上げます。
 以前の私は、猛烈仕事人間でした。寝る間を惜しんで東奔西走するほどに、自
信とエネルギーに満ち溢れていました。これこそが天命とばかりに忙しくするこ
とを一種の誇りのごとく錯覚し、家族に毎日、寂しい思いをさせていたのです。
こんな生活が長く続くはずがありません。1999年8月についに出張先の奈良
の地で倒れてしまったのです。
 私のなかでバブルが崩壊したのです。後天性血友病が発病し、それが大腿部に
大内出血を起こし、さらにそこにサルモレラ菌が感染してしまったのです。非常
に稀有な病気のために治療法がなく、ただ再出血が繰り返される度に気を失うほ
どの激痛のなか、敗血症を起こし何度もDICになりかけました。体内で病魔と
いうテロが多発するという致命的症状のオンパレードとなったのです。
 2000年の1月にかけて3回も大手術を受け、トータル輸血量60リットル、
二度の血漿交換、その代償として右足を根本から失うことになったのです。
 このような壮絶な闘病生活を通じて、私ははじめて主に従うこととはどういう
ことかを、理解することができました(詩篇23:4)。神様が本当に存在する
ということを心の底から知ることが出来たのです。そして、神の愛を知ったので
す。

死線の危機を脱出した私は、車椅子に乗せられ歩くことも出来なくなった片足
の自分に、突然深い絶望を感じたのでした。そんな日が続いたある日、いつもの
ように家内が押してくれる車椅子での散歩中ふと後ろを振り返ったとき、左足1
本でケンケンで私の車椅子のあとをついて来る当時7歳の長男の光景が目にはい
ったのです。
 私は心から悔い改めました。止めどもなく溢れ出る涙を抑えることが出来ませ
んでした。苦しんでいるのは自分一人ではない。家族みんなが闘っているんだ。
身体的に障害を持つ身となりましたが、家族の愛に支えられてハンディを誇って
いこうと勇気が与えられました(?コリント12:10)。
 私に60リットルという莫大な輸血を献血してくれた奈良県と大阪府の多くの
方々のおかげで、私が今あることをおぼえます。彼らの多くはクリスチャンでは
ありません。私はこのことを通じて、99%のノンクリスチャンに支えられてい
る自分に気づいたのです(ルカ10:30〜37)。
 今、私は、生きています。義足という新たな足を得て、北は北海道から南は鹿
児島まで自由に行き来することができるようになりました。さまざまな教会や学
校で証しし、聖書のメッセ−ジをお伝えする機会も与えられております。
 昨年9月には、これまで継続してきた研究に対して博士号が与えられ、今年4
月からは大学の教員として教育・研究活動に従事させていただいております。
 このように私には何一つ誇れるものがないのに、神様は溢れんばかりの祝福を
注ぎかけてくださるのです。

 主は命を与えませり

 主は血潮を流しませり

 その死によりてぞわれは生きぬ 

 われ何をなして主に報いし
(讃美歌332番)
 

 神様は本当におられるんだ。この単純にして最も根源的な真実を、わたしは自
分の生涯かけて証しして行きたいと願っております。そして神様に応えていきた
いと願っております。わたしのような欠点だらけの者をも、もちいてくださる神
様の愛に涙しつつ。

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