そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」旧約聖書 民数記13章30節


 学園(神学校)のためにお祈りいただいている団体のためにメッセージ出来てかんしゃですね。連合の多くの方が携わってくださってます。

 
 私は軽井沢に近しい、山を越えた所が私の生まれたところです。私の曾お祖父さんが礼拝を受けた後、ある宣教師が軽井沢に来て「休むのに良い」と言っていた。

 「ショー記念礼拝堂」というのがあります。創設者のショーは、「聖書を読み、学ぶ人のために拓かれている、軽井沢はそういう所だ。」といってる。

 今晩は静かにみことばに聞く時を持ちたいと思います。

 皆さんの年間の聖句で説教を用意しました。妻がこのみことばを見た時に、「この題はあなたが考えたんじゃないんでしょう?」と言われた。この聖句の「それ」とは何か?具体的に掴んで帰っていただきたい。

 
 聖書はなかなか難しい書物です。新約・旧約・・・どれほど深い関係で一つのことを語っているか。出エジプトの、約束の地に導かれる話も、旧約と新約でいろんな事が重なります。

 ※イースターは出エジプトに繋がる。※ペンテコステはモーセがシナイ山に登った時、律法が与えられた。

 長い歴史の中で、神様の計画が着々と進められる。

 出エジプトは脱出だけでなく、約束の地に入っていくのが目的なんですね。(中略)

 
 さて、成人男性で600人を超える人々がシナイ山を出発したのが民数記にある。約束の地が目と鼻の先という所で偵察に遣わされます。

民数記13章27〜29節
 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫をみました。
 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。


 ・・・よく調べてきましたねぇ。きちんとした報告をしています。それを聞いた人たちの驚きが想像できます。しかし31節で、全く違うものを見てきた人たちがいます。

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」


 民は一晩中泣き明かし、「諦めましょう」と言った。どうにも出来なかった。

 私はこういう所を読む時、ホッとします。牧師にもどうにもならない時もあります。モーセとアロンはリーダーですが、この二人も嘆く時があります。ヨシュアとカレブは「行こう!」と言った。
 この「行こう!!」と言えるのはスゴイ。15章8,9節
 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、そこを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。
 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」


 約束通りに本当に素晴らしい地だった!積極的なヨシュアとカレブと弱気な民は対称的です。勇気と無謀は違います。信仰と神を試みることは違います。

 彼らが決めたんじゃないんです。「ここが良い!今がチャンスだ!」と彼らが決めたんじゃないんです。9節の「ただ、主にそむいてはならない。」は、今、ここで進まないことは主に背くことだと言っている。

 敵がいかに堅固であり力があるかを見て来た。(偵察に行った)12人の判断では「自分たちでは出来ない」と思ったけど、自分たちには出来ないけど、主にはできる!!になった。

 ヨシュアとカレブは、この戦いはそもそも自分たちの力では何とかなると思っていない。信仰、信仰によるところの勇気です!モーセとアロンはひれ伏して祈りました。

14章19,20節 「・・・あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
 主は仰せられた。「私はあなたのことばどおりに赦そう。・・・」

 (エジプト脱出の)この間、民は立派だった、なんてことはないんです。私たちのクリスチャンの生涯も神の哀れみの中に置かれている。義なる神はこの不信仰な民も罰せられました。
14章7節 こうしてその地をひどく言いふらした者たちは主の前に疫病で死んだ。

 主は彼らと共におられず、40年の方々が始まった。

 3つのことをお話していきたいと思います。

 後編へつづく。

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