前編のつづき。

 3つのことをお話していきたいと思います。私たちクリスチャンの生活にどう密接しているか。

 
 エジプトの奴隷・・・それは途端の苦しみでした。(中略)

 
 紅海が分かれて海が開かれたことは、私たちのバプテスマ(洗礼)を表しています。

 
新約聖書10章1〜4節 そこで兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
 そしてみな、雲と海とでモーセにつくバプテスマを受け、
 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。 


 私たちの救いは洗礼を受けて終わりではない!民も紅海で逃れて終わりではない!

 
 どうでしょうか?この旧約の出来事は、他人事ではないんです。

 信じて踏み込むのか、それともとどまるか。

 モーセ、アロン、ヨシュアはみんなイエス・キリストのひな型ですね。一点の罪もないイエス・キリストを表す方は違いも歴然。

 ヨシュアとイエスは名前も一緒なんです。(中略)

 
 旧約聖書を読みながら、彼らよりも遥かに勝るイエス・キリストの信仰を見たいと思います。

 必ず「それ」を得ることができる!

 「約束の地」は私たちにとって何なのか?聖書全体を通して、御心が天でも地でもなされますように。神との交わりの復元。

 ヘブル9章を読むと聖書は繋がっていますね。

 

 その先にある安息・・・罪を赦され、罰を免れ、神の子とされる安息・・・。イエスによって本当の安息に入れられる。

 本当の救いを得ること、これが「それ」であり、必ずできる!!

 イエス・キリストによって必ず救われる!!

 そもそも、神の栄光を現すために造られた世界が、汚れている。それも修復されていく。

 私たちが何を考え、何をするのか?霊的な戦い。

 私たちはなかなか修復ができない。自分たちでできないと思ったのは、常識的な判断ですが。

 私たちは、できないと判断した側にいるのだろうか?それともできると判断したヨシュアたちの側にいるのか?

 
 もしかすると、凄〜い人間的な欲望を「必ずそれができる」と判断してしまわないように気をつけたい。

 私たちの神の力、神の約束を信じる。

 常識的にはヨシュアとカレブが間違っているのかなぁ?と思うが、二人が正しいと信じたい。

 私たちにとって、「それ」とは何か?考えていきたい。


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 1日の夜のメッセージは以上です。ちゃんと書けなかった話は(中略)しちゃいました。全体の85%くらいは書いたと思います。

 いつも思いますが、こんなに長い話の内容、よく手書きするなぁ・・・と思います。自分で手書きしたのをまたPCに打ってます。

 前編と後編、合わせて3時間かけちゃいました(^^;

 走り書きだから自分でも読みにくい箇所があるし、聖書の言葉を書く時は、かなや句読点など一字一句間違えないようにしています!

 旧約ではと太い文字で書かれている場合が多いんですが、大変なのでやめときました^^

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