「キリスト教放送局 FEBC」の代表、吉崎恵子先生のお話を聞いてきました。どんなお話を聞いて来たのかを書いてみたいと思います。


 その前に、この日記を読む気力もない方は、
ここへどうぞ↓



 http://www.febcjp.com/





 

 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。



 今日は、皆様のリクエストでこの題となりました。私はFEBCで40年勤めているので、FEBCのことばかり語るかもしれません。毎日、ラジオで放送しています。夜9時半から放送しています。インターネットでも24時間聞くことが出来ます。世界中から、毎日500通くらいのお手紙をいただいて、手書きで返事をしています。そのうち200通ぐらいが深刻なものです。「(ラジオで)読まないでください。」と言うメールもありました。

 
 自殺を考えている既婚男性からの手紙がありました。

「長いことうつ病でしたが、神様を信じてみよう。と「主の祈り」を日記に書いていたら、後ろ向きだったのが前向きになり、教会にも行ってみるようになりました。」※1


 こういうパーソナルな働きをしています。


 今日は「希望が持てないときにも・・・」と言う題ですが、私たちは本当に神様を見失う時があります。詩篇にも沢山ありますよね?22篇や70篇。最も悲しい詩篇が88篇です。

 神様を見失った時にこそ、私たちは神様を呼び求めるべきなんです。


 神様は、私たちから目を離さない、愛することしか知らない方なのです。


 主イエス・キリストを通して愛してくださる。主イエス・キリストの死をもってご自分を全く与えてくださった。


 
 (ここでマタイの福音書11章28~30節をもう一度読まれました。)


 
 今、ここにいる私たちは疲れていないでしょうか?希望を失わない人生はありません。主がわたしたちをそのように、苦労して、疲れて、「わたしの元に来なさい。」と言っています。


 私たちは挫折し、希望を失います。どんな人も、善人も悪人も、お金持ちを貧しい人も、 「すべて わたしのところへ来なさい。」と言っています。


 幼子のような者、無力で単純な者でないとイエス様を知ることができないんです。


 皆様は「くびき」(※2)をご存知ですか。主とくびきを負うとはどういうことか。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」というのは、そういう風にしてです。


 イエス様と共に担う、本当の重荷とは何でしょうか。十字架です。


 牧師であったわたしの父は、末期ガンで天に召されました。何とも言えない表情をするようになりました。悔い改めの詩篇、130篇を大きな声で耳元で読みました。

 「深い淵の底。そこから神を呼ぶと良い。」


 神が見えないところから神を呼ぶ、「それが恵みの奇跡を呼ぶのだ」と。



 具体的に罪を告白するときに、神様は具体的に応えてくださる。


 神様は、どんなに貧しい祈りも聞いていてくださる!


 いつでも単純に神様を求めるのです!







 



 以上がメッセージの内容を私が書きとめたものです。



 ※1は、ラジオで読まないでほしい内容を私が勝手にブログに書いているので、かなり省略しました。


 ※2 くびきとは、牛が荷物を引くためにつける木製の器具です。ユダヤ地方の当時のものは大抵二頭の牛が並んで引いてゆくための二頭立てのくびきでした。





 私、はちみつも詩篇の暗唱は真似してみようと思いました。


 それと『神が見えないところから神を呼ぶ、「それが恵みの奇跡を呼ぶのだ」と。』を聞いたときに、自分が海で溺れていて必死に助けを求めているのをイメージしました。



 「そういうことか!」と。



 


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